姉川さくらルート6 可能性を広げるために

 『あやかしびと』のSS「姉川さくらルート」妄想追加ルートです。

 『あやかしびと』及び『あやかしびと―幻妖異聞録―』のネタばれを含みます。ご注意ください。

 

 

「それでは、本日の議題はこれまで」

『お疲れ様でした』

「お疲れ様で――ぐふっ!」

 さて、生徒会活動もつつがなく終わり、下校である。

 勢いよく立とうとして、腰の骨を折り死んでしまった狩人を椅子に座らせて、資料を鞄に仕舞い込む。

 未だに死ぬ瞬間には慣れないけれど、死んでしまえばこっちのもの。まあ、放っておけばすぐに蘇生するだろう、と割り切ることが出来るのだ。というか、むしろ割り切らないと狩人と付き合っていられない。

 最近は、そんなふうに考える余裕の出来た自分が、我ながらに恐ろしかったりするのだが、それはさておき。

 両腕を天井へ向けて背筋を伸ばす。

 鞄を持って立ち上がろうとしたところで、

「双七さん。少々よろしいですか?」

 さくらちゃんに呼び止められた。

「うん。どうしたの」

「はい、えっと」

 なんだか言いにくそうに一呼吸置いて、続ける。

「み、見回りのことなんですけどっ、今日帰りに、簡単に下見してみませんか?」

「下見?」

「は、はいっ!」

 外回りのメンバーを決めた後の話し合いで、俺とさくらちゃんは北の地区を担当することになっていた。が、実はそちらの方角は、俺たちのマンションとは正反対。学園周辺とはいえ、土地勘のない俺にしてみれば未知の場所だ。そこで気を利かせて、さくらちゃんは今日のうちに下見を、と提案してくれたのだ。

「地理に詳しくないと、なにかあった時に問題もあるでしょうし、少しでも慣れておいたほうがいいかな、って思ったんですけど……」

 なぜかうつむき加減で、自信なさげなさくらちゃん。

 けど、それは確かに正しいと思う。もし誰かが襲われているなんて事態になれば、すぐに現場に駆けつけなければならないのだ。少しの遅れが、取り返しのつかない事態になりかねない。

 そう考えるうちに、つい「なにかあった場合」を想像してしまう。

 取り返しのつかない事態。

 組み伏せられる女性。一方的な暴行。押さえつけられ、抵抗の仕様もなく。

 それは、いつか過去に見た出来事。

「うん。さくらちゃんの言うとおりだ」

 さくらちゃんに肯く。そうだ。あんなことを二度と繰り返すわけには行かない。そんな事態を防ぐために、俺になにかできることがあるのなら、全力で取り組まねばならない。

 犯罪率が高く、学生にまで取締りの手が回らないという神沢市。

 俺にとっては夢にまで見た日常でも、この神沢市にいること、「隔離」されていることを、快く思わない人は多いという。

 思い出されるのは、あの神沢市に潜伏する際に通った検問でのこと。投石と共に、人々の罵声と、恨み言と、恐怖と、そんな負の感情をぶつけられた女の子。それを思えば、現状に苛立ちを覚える者がいるのも無理からぬことなのかもしれない。

 でも、一方で、今も眼下のグラウンドでは、野球部が白球を追っているのだ。例えその人妖能力ゆえに、公式の試合に出場権を与えられず、甲子園を目指すことが出来なくても、精一杯、青春を謳歌しているのだ。

 自分が不幸だからといって、幸せに暮らしている人の日常を壊していいはずが無いではないか。そんな権利、誰にもあるはず無いではないか。

 頬を叩いて、平和ぼけしかけていた頭に活を入れる。

 バチン、バチン、と。

「あのっ、どうなさいました?」

 戸惑うさくらちゃん。あ、それもそうだ。いきなり頬を叩き出したりしたら、変にも思われても当然だ。慌てて弁解する。

「ああ、いや、気合を入れてただけ。さくらちゃんがそこまで考えてるんだから、俺もがんばらなきゃなって」

 だが、さくらちゃんは

「え、いえ、それは……わたしは、違うんです。そんな上等なものじゃなくて、その……」

 と、なぜか気まずそうにうつむいてしまった。俺、なにかまずいことでも言ったのかな。

「えっと、ほら、俺なんてこれまで大したことしてないし、さくらちゃんに言われるまで、見回り場所を下見するって発想すらなかった訳だし。少しでも生徒会の一員らしいことをしたいなってだけで、その。だから、案内してもらっていいかな」

「そ、それはもう!わたしから言い出したことですから、おまかせください!」

 気を取り直したさくらちゃんは、握りこぶしで胸をぽんと叩く。その仕草は「どんとまかせなさい」なわけだけど、さくらちゃんの豊かな胸はいつものごとく、「どん」とどころか、「ぽよん」と揺れているわけで。いつ見てもそれは眼の毒というか、眼に眩しいというか、どちらにしろ、そう易々と見てはいけないような気がする。離れたがらない視線を無理矢理そらした。

「あ、ありがとう。それじゃ、さっそく行こう。すず」

 さくらちゃんにお礼を言いつつ、隣のすずに声をかける。

 こうして日々を過ごしているとふとした拍子に忘れそうになるけれど、俺たちは追われる身だ。すずを一人にするわけにはいかない。今日は帰りがけに下見するわけだから、面倒でもついてきてもらわないと、と思ったのだけれど。

「あ、わたし、美羽と一緒に帰るから……」

「美羽ちゃんと?」

 すずの言葉につられて、美羽ちゃんを見る。美羽ちゃんはこくりと首を縦に振り、

「わたしがお願いしたのです。今日は早く帰らないといけないので……」

 なるほど、確かにすずと美羽ちゃんが一緒に帰る、というのは悪くないかもしれない。ひとりで帰ってはいけないからといって、美羽ちゃんにまで下見に付き合ってもらっては帰りが遅くなる。なんといっても帰り道と正反対の場所なのだ。

 すずと美羽ちゃんが一緒に帰れば、二人に余計な手間を取らせなくてすむ。それに、上杉先輩のこともあった訳だから、美羽ちゃんも誰かと一緒に帰った方が気も紛れるだろう。

 それはそうなのだが。

「けど、男女が一緒でないとまずいんじゃ」

 俺の疑問に、書類を整理していた会長が口を挟んだ。

「では、すずくんと新井くんとは、俺が一緒に帰ることにしよう。もちろん、ふたりがそれでよければ、だが」

 会長はふたりに目を向ける。

「……別にいいんじゃない。反対する理由はないし」

 すずが同意し、その言葉に美羽ちゃんも肯いた。

 会長が一緒か。これほど心強いことはない。

「じゃあ、よろしくお願いします」

「わかった」

 会長は快諾してくれた。

 そうと決まれば、一安心だ。それでも念のため、すずに言い含める。

「出来るだけ早く帰るから、知らない人が来ても鍵は開けるんじゃないぞ」

「わかってるってば。もう、いつもいつも心配性なんだから。大丈夫。開けたりしないわよ。――絶対に」

 言うすずの表情に、微かに邪なものがよぎった気がしたのは、気のせい、だろうか。

 どことなく引っかかってすずに尋ねようとしたところを、上杉先輩の声に遮られた。

「双七、さくら嬢を襲うんじゃねーぞ」

「なっ、お、襲うって、しませんよ、そんなこと!」

 上杉先輩の口調はただのからかうものだったのだけれど、内容が内容で、さっき考えていたことに通じるものがだったせいか、つい言い方が強くなってしまう。

「あん?なんだ、むきになっている所が怪しいな。なんかよからぬ事でも企んでたか?」

 上杉先輩はあくまで冗談口調なのだが、今度はその言葉にすずが噛み付いてくる。

「双七くん?企んでるわけ?」

 こちらの視線は疑いに満ち満ちているわけで。

「企んでない、ない。そんな気はこれっぽっちもないから」

 横からトーニャが口を出す。

「ほぅ、さくらのボディでは満足できないって言うんですか。意外と贅沢ですね」

「そ、そういう問題じゃないから!」

 慌てる俺にトーニャは更に、

「では、特殊な性癖でも?」

「それも違うって!」

 というか、女の子が性癖なんて言わないで欲しい。……いや、その辺の考えを押し付けるのはいけないような気もするしやっぱりいいのかな。でも、人前で堂々とってのはやっぱりなんと言うか、その。

 しどろもどろする様子になにを勘違いしたのか、周りから怪しいという視線が。

「ち、違う、だから、襲うとか無理矢理とか、そういう行為が最低だって言いたいわけで、合意の上なら――って、うわぁ!待った、たんま、今のなし!」

 なにを口走ってるんだ、俺!

「ご、合意ってなんの合意よ!」

 すずに足を踏みつけられる。

 痛い痛い。

 痛いは痛いんだけど、全面的に俺が悪いので文句も言えない。

 で、その様子を見てトーニャがにやりと笑う。やっぱりからかわれるんだろうなぁ、と思っていたら、くるりと視線を移して、

「ほら、さくらもその、双七さんにだったら合意してもいいのになぁ、って顔は止めなさい」

「へっ?」

 トーニャに言われるままに視線を移す。

 俺の脚を踏みつけるのに一生懸命だったすずも含め、皆の視線がさくらちゃんに集まった。

 急に振られたさくらちゃんはといえば、一瞬きょとんとした後、火がついたように真っ赤になり、

「え?……あっ、ああああぁ!あの」

 両手を胸元でぱたたと振りながら

「えっと、その、違くて、そういうことじゃなくて、そのっ」

 視線はぐるぐると揺れ動き、いかにも大慌てだ。

 その様子を見て上杉先輩が、またもやからかう様に、

「おー、なんだったら代わりに俺が――」

 と、そこまで言いかけたところで、七海さんの声が割って入った。

「へー、代わりにあんたが、なんだってのよ」

 言いながら鞄を握る。

「え、あー、いや、代わりになんだっていうか、なんでしょう?」

 言いよどむ上杉先輩。七海さんの視線にせかされて続ける。

「だ、だだだ、だから、ただの冗談であって、あくまでスキンシップの一種でだな……」

 そのうちに、皆そろそろと上杉先輩から離れていく。非常に危険な気がするので、俺もとりあえず退避することにした。

「こ、こら、おまえら、逃げるな!」

 戦略的撤退と言って欲しい。

「で?代わりに、なによ」

 最後通牒よろしく弁明の機会を作る七海さん。だが、

「あ、あー、それはだな、そのー、いや、すまん、なんでもございません!ございませんから、そのゆらりと振上げた鞄をお降ろしやがってください!」

 上杉先輩の嘆願も空しく、

「問答無用っ!」

 ゴッ!

「どぅあぁたあ!」

 ズシャァー!

 すっ飛ばされて床を滑っていく上杉先輩。

 親しき仲にも礼儀あり。人間関係の教訓を身を持って教えてくれた上杉先輩に感謝しつつ合掌。

「死んでねぇ!」

 ボロボロの身体を起き上がらせつつ、上杉先輩が呻いた。

 その声をよそに、散々かき混ぜたトーニャが言う。

「まあどのみち、如月くんにさくらを襲うだけの度胸も根性も甲斐性も無いことは、以前の買い物の時に確認済みなわけですが」

 間違った方向に分厚そうなその信頼に、涙がでそうだ。

 あれこれと大騒ぎの中、さくらちゃんが言った。

「あ、あの、双七さん、そろそろ行かないと、帰りが遅くなると思うんですけど」

「あ、そうだった」

 生徒会室の窓から外を見る。もう陽がだいぶ傾いていた。他の皆はともかく、俺たちは下校前に見回り地域の下見をするわけで、かなりの遠回りをしなければならない。少しでも早く出たほうがいいだろう。

 うやむやになりかけていたやる気を取り戻し、すずのことを会長に頼む。

「それじゃ、会長、すずのことお願いします。お疲れ様でした!」

「ああ。まかせてくれ」

 という会長の返事と、すずの、

「早く帰ってこないと、ただじゃおかないんだからね!」

 という叫びと、

「な、なんか妙に気合入ってんな、双七の奴」

 という上杉先輩の声を背に、俺たちは生徒会室を跡にした。

 

 

 

 生徒会活動後の、一般の学生が下校するには遅く、かといって部活動に勤しむ学生にとってはまだ下校には早い、そんな中途半端な時間帯。黄昏時の街に、生徒の姿は疎らだった。

 さくらちゃんに案内されて、見回りを担当する地域を歩く。

 いつもと反対の方角を歩くだけで、街の表情ががらりと変わった。

 まるで初めて神沢市に移り住んできたときのような新鮮さ。

 俺は神沢市のことをまだぜんぜん知らないと、あらためて思い知らされた。

 あくまで見回りの下見が目的だと自分を言い聞かせようにも、ついつい楽しんでしまう。

「へぇ、こんなところにホームセンターなんてあったんだ」

 目の前には大きめの店があった。家具だけでなくDIY用品にガーデニング用品、その他、釣りやキャンプなどのスポーツ用品まで取り揃え、さらにはペットショップも兼ねた複合店舗のようだ。

「知りませんでした?ここは結構品揃えもいいし、便利なんですよ。あ、でもお値段はあんまり安くないんですけど」

 生まれた時からこの神沢市に住んでいるというのだから、勝手知ったる、といったところなのだろう。さくらちゃんは、あちこちと道や、目印になりそうな建物、そしてそれにまつわる思い出を教えてくれる。

 にこにことあたりを説明して歩くその姿は、本当に楽しそうだ。

 その笑顔を見ているだけで俺まで幸せな気分になってくる。

「それにしても随分と大きいな。本当に、何でもそろいそうだ」

 ホームセンターに接した通りを歩きながら、もう一度眺める。建物自体も大きかったが、それ以上に駐車場のスペースが十分すぎるほどに広く、それのせいか余計に巨大に感じる。今度すずと来てみようかな、そんなことを考えているとさくらちゃんが説明してくれた。

「この辺はまだ開発が進んでませんから、土地も安く済むんじゃないでしょうか」

 なるほど。そう言われればこちらは都市部からだいぶ離れている。周りにも、俺たちが住んでいるところに比べて、家やマンションといった建物はかなり少ない。下校中の生徒が少ないと感じたのは、何も時間帯だけが理由ではなかったのだと、今更ながらに気がついた。

 ……人気がない。

 それは人に見られてはまずいことをするに適した場所、ということではないか。

 楽しんでばかりもいられない。少しでも土地勘を養っておかないと。

 路上にあった地図を見て、場所を確認する。神沢学園から少ししか離れていない。ちょっと歩くだけでこれだけ辺鄙な場所に出ることに、改めて驚かされた。

 と、視線に気づいて眼を上げる。

 さくらちゃんが地図ではなく、俺のほうを見つめていた。

「さくらちゃん?俺の顔、何かついてる?」

「あ、いえっ、すいません。そうじゃなくて、ただ……一生懸命だなぁって」

「えっと、変かな」

「そんなことないです。けど、なんていうか、ちょっと張り詰めすぎちゃってる気がして、どうしてかなぁって」

 さくらちゃんは、こういった人の心境に関することに本当に鋭いと思う。だからこそ、人の気持ちをリラックスさせる香りを出す、という人妖能力を上手く使えているのだろうけれど。

「どうしてか、かぁ」

「よければ聞かせてくれませんか?」

 さくらちゃんはおずおずと尋ねてくる。

「大して面白い話じゃないよ」

「それでも聞きたいんです。……無理に、とは言いませんけど」

 最後のほうは力なく消えるように言う。

「いや、別に今更隠すことじゃないから」

 道に沿って再び歩き始める。一呼吸置いて、自分の気持ちをまとめるように、ゆっくりと口を開いた。

「以前話した、俺が孤島の病院に収容されてたときの話なんだけど、すずと出会うよりも前、大切な人がいてさ。その人はいつも優しくて、病院に馴染めないで泣いてばかりだった俺のこと助けてくれて。……なのに俺は、その人のこと、守ってあげられなかったんだ」

 そう。俺は大切な人を、薫お姉ちゃんを、守ってあげる事が出来なかった。

「悔しくて、情けなくて、力のない自分が悲しくて堪らなかった。もう、そんな思いをしたくない。だから、誰かのために、大切な何かの為に出来ることがあるなら、やっておきたいなって」

 今俺にとって大切なもの、それはもちろんすずだ。断言できる。すずは守らなければならない大切な存在だ。

 でも、すずだけじゃない。

 俺もすずも、まだ神沢学園に完全に慣れたとはいえない。けれど、クラスや生徒会のみんなは、俺やすずのことを受け入れてくれた。

 過去にあった出来事を気にせず、普通の友達として、接してくれる。接し合える。それは、きっと特別のことじゃなく、日々、人妖としての能力に目覚めてしまった「患者」が転入してくる神沢学園にあっては当たり前のことで。

 時に喧嘩をしたりもするかもしれないけれど、話し合って、分かり合える。

 真面目に互いを知り合いながら、バカな冗談を言い合いながら、同じ時を過ごしていける。

 だから、俺は、この学園のことが好きなんだと思う。

 生徒会の仕事だから、だけじゃない。神沢学園のことが好きだから、俺にできる事があるのなら、力になりたい。この学園の、すずやみんなとの平穏を、不幸な出来事で乱したくはない。

 なら俺は、可能性を少しでも広げるために、努力すべきなのだ。

 『選択肢を増やすためだ』

 どうして強くなりたかったのかと尋ねたとき、九鬼先生はそう答えた。

 地理に詳しくなるということは、己が強くなる、ということとは少し違う。けれど、もしものとき、少しでも多くの選択肢を持っていられるように、今出来ることをする、という意味では同じだ。

 だから俺は、努力しなければならない。

 もう二度と、織咲病院での出来事のような事態を、引き起こさないために。

 幼い日の逃亡。あの日の俺の願は正しかったと思う。でも、その願を叶えるために選んだ方法が、絶望的に拙かった。

 それは、今でも胸を裂く、辛い思い出。

 だけど、過去に苛まれているだけでは意味が無いのだ。

 俺は、少しでも可能性を広げておかなければならない。正しいと思う願いを、今度こそ叶える為に。すずと、そして生徒会やクラスのみんなとの、この神沢学園での暖かな日常を守る為に。

「双七さんって、凄いですね」

 俺の話しを聞いていたさくらちゃんが、口を開いた。その口調には嫌味やお世辞の感じられない、素直な感嘆だと思う。それだけに余計、気が引けてしまう。

「え、いや、俺なんて全然。偉そうな事言っても、やってることは、ただ道を覚えてるだけだし」

「そんなことないですよ。凄いです。一日一日を楽しそうに過ごしたり、その日のためにがんばろうって思ったり、そういうのって簡単なようでとっても難しいことだと思います。きっと、そんな双七さんだから……」

 と、そこでさくらちゃんは言葉を切ってしまった。

「さくらちゃん?」

「えとっ……な、何でもありませんっ!」

 言って顔を背けてしまう。

 どうしたのかと思っていると、さくらちゃんが一転、驚きを含んだ声で、

「あれ?双七さん、あれって……」

 と呟いた。

 その視線の先には、ビルとビルの谷間に打ち捨てられた段ボール箱。まあ、あまり感心できることではないけれど、別段珍しくもないんじゃ……とそこで気づいた。

「子犬さん、ですね」

 段ボール箱の中に、白い毛並みの子犬がいた。こちらの視線に気づくと、小さな尻尾をぱたぱたと振る。首輪は、してないみたいだ。

 さくらちゃんの表情が翳る。理由を考えるまでも無い。この状況にいたる過程といえば、ただひとつだ。

「……捨てられちゃったんでしょうか」

 さくらちゃんがダンボールの側にしゃがみこむ。俺も近づいて中を覗き込んだ。

 子犬といっても、生まれて間もないというほどではないようだ。更に強く尻尾を振り、きゅんきゅんと鳴く。

 見知らぬ俺たちを目の前にしても、怖がらない。人間に慣れているのだろう。

 よく見ると、だいぶ痩せている。その鳴き方も、甘えているというよりは、必死に助けを求めている風に見えた。鼻と黒くつぶらな瞳が濡れている。

 どうしてこんなことをするんだろう。どうしてこんなことができるのだろう。

 寂しさと悲しさが胸を襲う。

 飼っている犬が子供でも産んでしまったのだろうか。それとも、別にやむにやまれぬ事情があったのだろうか。それはわからない。

 けれど、こんなところに置いていかれては、飢え死にするのを待つだけではないか。

 捨てられた子犬。

 今や顔も思い出せない両親と、薫お姉ちゃんと、九鬼先生。

 拾ってやることは出来ない。家はマンションだ。すずもいる。なのに、つい先ほど見かけたホームセンターが、頭に浮かんで離れなかった。

 ただの感傷に過ぎないのだと思う。浅ましい自己憐憫、一時的な自己満足なのだと思う。

 ――それでも、この子犬は必死に今を生きようとしているのだ。

「ごめん、さくらちゃん、ちょっとここで待ってて」

 俺は今来た道を駆け足で戻った。

 

トップへ戻る

トップへ戻る