姉川さくらルート4 過去と今

 『あやかしびと』のSS「姉川さくらルート」妄想追加ルートです。

 『あやかしびと』及び『あやかしびと―幻妖異聞録―』のネタばれを含みます。ご注意ください。

 

 

「リョウイチ君!ダメ!ダメなの!」

 あたりを鳴り響く警報の中、薫お姉ちゃんが声をあげる。ダメだと、無理だと、止まってと。だけどぼくにはそれが理解できない。

 なにがダメなのか。

 なぜダメなのか。

 なぜ止まらなければならないのか。

 ただひたすらに、走り続ける。薫お姉ちゃんの手を引きながら。

 立ち止まってはならない。この手を離してはならない。ぼくにとっては、止まることこそがダメなのだ。

「お願い!止まって!今なら!今ならまだ!」

「着いた……!」

 目の前にそびえ立つ金網を、にらみつける。この金網が、ぼくたちをしばりつけるのだ。閉じ込めるのだ。薫お姉ちゃんを、ひどい目にあわせるのだ。

 雨音に混じって響く、怒号。ぼくたちを追う病院の警備員たち。迫る危険。だけれど、目の前の金網を乗り越えるという誘惑には抗えなかった。ぼくはこの金網を乗り越える。薫お姉ちゃんを連れ出してみせる。そのためなら鉄条網も、高圧電流も、銃器を持つ警備員たちにも、負けはしない。

 ありったけの決意。

 その想いを叶えるために、

 方法など考える余裕もなく、

 ひたすらに、がむしゃらに、

 ただただ薫お姉ちゃんのためにと、だから正しいのだと、自分の願いは正しいのだと、

 だから、適うのだと、適えるのだと、信じていた。

 

 ――背後に迫る、本当の危機にも気づかずに。

 

 上手くいくはずのない逃亡だった。

 

 

 

「――ッ!」

 声にならない悲鳴と共に、眼が覚めた。

 胸が激しい動機に締め付けられる。からからに渇いた咽喉を、荒い息がヤスリの様に削っていく。全身から汗が噴出し、寝巻きだけでなく、真っ白なシーツをも湿らせていた。

 真っ白な、シーツ?見慣れないそのシーツの存在が、ぼやけた頭に現実を認識させる。

 あたりは一面の白い壁。ひとつある窓からは、早朝の薄白い光が微かに差し込んでいる。時計の針は六時半を指していた。

 ここはあの病院ではなく、七海病院。昨日、爆弾の除去手術に来て、検査の後、手術となって……麻酔が覚めたときには手術は終っていて。

 除去手術の結果、爆弾自体は取り除けなかったものの、遠距離からの起爆コマンド受信装置は取り除くことが出来たという昨日の七海さんのお父さんの言葉、今日は病院に泊まっていきなさいという七海さんの言葉、すべて憶えている。

 そうか、夢か。大きく息を吐く。久しぶりに、嫌な夢を見た。最近は、あの島の出来事を夢に見ることも少なくなっていたのに。病院という場所に泊まったせいだろうか。それとも、右腕に埋め込まれた爆弾という存在を、改めて認識したからだろうか。包帯のうえから、手術跡をそっとなぞる。錯覚に違いないのだが、それでもその肘に、重い存在が感じられた。逃亡し、名前を変え、如月双七として生活する俺が、武部涼一であったという痕跡。確かな証拠。だからこそ、重い。だからこそ、この肘に、あの島の出来事すべてが詰まっているような、錯覚。だからこそ、あの島の出来事の中でも、最もつらかったことを、今になって夢に見た?最も忘れたかったことを、忘れたことを。

 ふと頭に引っかかる。忘れた?なにを。俺はなにを忘れたというのか。俺は覚えている。夢に見るくらいに。あの時、雨の中、薫お姉ちゃんを連れ出して、あの島から抜け出そうとして、警備員たちが追ってきて……。

「つぅっ!」

 頭の中が警鐘を響かせる。これ以上は考えてはいけない。その続きはなにもない。脳髄を警告が駆け巡り、その先にあるなにかを黒く塗りつぶす。俺の意識が、そのなにかを暴き出そうと奥を覗き、俺の本能が、そのなにかを隠そうと更に塗りつぶす。意識の濁流に、じくりと胃が痛む。息が再び乱れ始める。かさぶたが、傷の癒える前に剥がれていく感覚、体が震え、

 こん、こん

 病室のドアをノックする音で、再び意識が引き戻された。

「――ッあ、は、はい。どうぞ」

「失礼します」

 聞きなれた声でそう答え、病室に入ってきたのはさくらちゃんだった。七海さんも一緒だ。

「気分はどう、如月くん?……って、どうしたのよその汗!?」

 俺のことを一目見るなり、七海さんが驚きの声をあげた。

「双七さん、どこか痛むんですか!?」

 さくらちゃんも慌てて駆け寄ってきてくれる。ふたりの気持ちが、本当にありがたい。だからこそ、二人に心配をかけないよう、努めて明るい声を作って搾り出した。

「大丈夫。なんでもないよ」

「そんな真っ青な顔して、大丈夫なわけないでしょ!?縫合は上手くいっているし、そこまで痛むはずないんだけど……」

「本当に、なんともないから」

 そう言っても、七海さんは俺の言葉などまったく信じられないといった風だ。どうやら俺は、そんなに酷い顔をしているらしい。傷口をみて「どこか痛むところある?」と尋ねてくれる。こんなに心配してくれる人たちがいて、学校に行けて、幸せなのだと思う。この上なく幸せなのだと思う。なのに、昔のことを夢見てうなされてたなんて、情けなさすぎる。この間の下校のとき、さくらちゃんとの会話で気づかされたはずではなかったか。『昔は辛いことが色々あった。でも今は楽しい。それでいいじゃないか。それだけで、充分ではないか。』と。自分の不甲斐無さが、身に沁みた。

 出来れば、なんでもないと、その場を誤魔化したい。けれどふたりとも、いくらなんともないと言っても納得してくれそうにはなかった。しかたなく、たわいもないことように、簡単に説明することにした。

「ちょっと、嫌な夢をみてさ。本当にそれだけだから。手術の傷は少し疼くけど、そんなに痛くないし。大丈夫だよ」

「夢?夢だけでそんな……ぁ」

 不思議そうな声をあげかけた七海さんは、途中で言葉を切ると気まずそうな顔をした。さくらちゃんも口をつぐんでしまう。気づかれてしまったのかもしれない。

「ただの夢だから、気にしないで。それよりふたりとも、こんな朝早くにどうしたの?」

 俺の言葉に、七海さんは

「姉川さんが如月くんに渡したいものがあるって言うから。わたしはそのついでに如月くんの様子を見に、ね。詳しくは姉川さんから聞いて」

 と、いつもの調子に戻って答えてくれた。その気遣いが、ありがたかった。

 言い終えると七海さんはさくらちゃんに視線を移し

「わたしは体を拭くタオルと洗面器を持ってくるから、しばらくの間、如月くんのことお願いね」

 そう言って病室を出て行ってしまった。

 しんと静まり返る部屋。さくらちゃんは俺の夢の話を聞いて以来、入り口ドアの傍らに立ったまま、何事か考えているようだった。冷静になって見れば、登校前によってくれたのだろう、さくらちゃんは神沢学園の学生服を着ている。それもそのはず、今日は月曜日なのだ。

 本当は土曜日一日を使って検査後、手術をし、日曜日は経過の観察にあてたほうが良かったそうなのだが、そうとは知らず、俺は土曜日にさくらちゃんと買い物の約束をしてしまった。そのため七海さんが手術を日曜日にしてくれたのだ。それなら買い物だけでなく、アルバイト探しも土曜日に一緒にすればよかったかも、と思ったけれど、結果としては買い物だけで正解だった。なにせ、買い物にあれだけ時間がかかったのだから。もしアルバイト探しもしていたら、時間が足りなかっただろう。

 さくらちゃんは今もドアの側に立ち続けていた。両手をおなかの辺りで重ねてもじもじと動かし、なにかを言いたいのに口に出せないようなもどかしさを、にじませている。

「えっと、よかったら、座ったらどうかな?」

 言って、病室の奥にあった椅子を左手で引く。

「は、はい。失礼します」

 さくらちゃんはとことこ、すとん、と腰を下ろした。

 そのまま、またもや黙ってしまう。けれどそれは、息苦しいものではなかった。さくらちゃんが俺のことを気遣ってくれていることが、その沈黙から、その表情から、確かに伝わってきたから。だから、なにも言わず、待つことにした。

 患者さん同士の朝の挨拶や、看護士さんと患者さんの会話など、病院内の朝の喧騒に、あたりの空気の音が耳に小さく混じり始めたころ、さくらちゃんは口を開いた。

「……手術、残念でしたね」

「うん。でも、もう爆発しないっていうだけでも十分だよ。これが爆発してみんなに怪我をさせてしまう、なんてことはなくなった訳だし。たしかに爆弾が肘にあるっていうのはいい気持ちはしないけどさ」

 そういって笑ってみせる。

 これ以上、心配をかけないよう、出来る限りの笑顔を浮かべたつもりだったのけれど、さくらちゃんは難しい顔を崩してはくれなかった。

「でも、双七さん……」

 なおも言いにくそうに口ごもるさくらちゃんは、少し考えた後、

「えっと、……失礼だったらすいません」

 そう前置きして、つづけた。

「……双七さん、無理してます、よね?」

 問いかけではあったが、その言葉は確信に満ちていた。

「……そう、見えるかな」

「はい、双七さん、なにか悩んでるって顔してます。だから、良かったら、話して下さい。話すだけで楽になることもありますから。わたしじゃ、力になれないかもしれませんけど」

 さくらちゃんはうなだれる。力になれないなんて、料理だったり生徒会の活動だったり、これまで何度も助けられてきたというのに。だからこそ、この爆弾が重く感じるというのに。

「そうじゃないんだ。さくらちゃんやみんなには助けてもらってばっかりで、本当に感謝してる。ただ、むしろそれが悩みっていうか――……俺はみんなの好意に甘えてばっかりだからさ。突然逃げてきて、こんな爆弾を抱えてて、そんな俺がみんなに迷惑かけてまで、学園生活を続けていいのかなって……」

 そうだ。いつも心のどこかで感じていた。俺は今、自由で、すずがいて、学校にも通い、生徒会に入り、友達もでき、それが楽しくて、嬉しくて、それだけで充分だと思えるくらい、幸せで。辛かった出来事も昔のことだと乗り切っていけそうなくらいで。だけど、俺のせいでみんなに迷惑をかけている。そしてもしかしたら今以上の迷惑をかけてしまうかもしれない。みんなと仲良くなればなるほど、それがこの上なく、怖い。

 だが、俺の言葉にさくらちゃんは顔を上げ、強い口調で言った。

「いいに、いいに決まってます!逃亡者とか、関係ありません!前にも言いましたけど、わたしのスタンスは変わりませんから!わたしだけじゃない、七海先輩も、美羽ちゃんも、トーニャ先輩や愛野先輩、上杉先輩に会長、刀子先輩も、みんな、きっと!」

「……さくらちゃん」

 さくらちゃんのその言葉に、自分の愚かさを痛感した。みんなは俺やすずのことを承知したうえで、受け入れてくれたのだ。なのに、さっきの俺の言葉は、そのみんなの気持ちを裏切るようなものではないか。自己嫌悪で、自分を殴りたくなった。

「それに、わたし、双七さんとすずさんのこと、友達だって思ってます。だから、困ってたら助けたいって思うんです。双七さんのためじゃない、わたしが助けたいって思うから、料理だって、お母さんのように、人の役に立ちたいって思うから、おふたりの役に立てたら嬉しいから、だから、ぜんぜん迷惑なんかじゃありません!」

 さくらちゃんはいったん言葉を切って一呼吸すると、落ち着いた声で続ける。

「……双七さんに、気にしないで、って言っても無理なのかもしれません。わたしには、双七さんがどんな生活を強いられてきたのか、どんな苦悩を味わってきたのか、どんな気持ちを背負っているのか、聞くことは出来ても、感じることはできません。けど、その分わたしは、わたしたちは、気にしませんから、双七さんが爆弾を埋め込まれていようと、すずさんが妖怪だろうと、おふたりがどんな過去を持っていようと、気にしませんから。今ここにいる双七さんは、双七さんだから……」

 さくらちゃんのそのひと言ひと言に、目頭が熱くなる。今や涙腺が決壊寸前だった。たまらず眼を閉じ、俯いた。

 俺のそのしぐさを勘違いしたのか、さくらちゃんが慌てて言う。

「あっ、すいません。わたし、ひとりで勝手に……」

「いや、ちがう。ちがうんだ。なんか俺、うれしくって……」

 口から出た言葉は少し涙声になっていた。左手で量目を擦り、気を取り直して言う。

「ありがとう、本当に。俺もみんなやさくらちゃんになにか困ったことがあったら力になるから。絶対に!」

 俺の言葉に、さくらちゃんは、はい、といつもの朗らかな笑顔で答えてくれた。

 あんな夢を見てしまったからだろうか。こんなふうに悩んでしまったのは。だけど、もう悩むのはやめにしよう。少しだけずうずうしくなろう。

 それがみんなの信頼に答えることだと思うから。

 

 

 

「如月くん、入るわよ」

 程なくして七海さんが戻ってきた。手には綺麗に畳まれた白いタオル数枚と、お湯の入った大き目の洗面器を持っている。俺のベットの側まで歩いてくると、七海さんはそれらを差し出した。

「はい。これで体拭いて」

「うん。わかった。ありがとう」

 お礼を言いつつ受け取る。

「それじゃあ、わたしたちはちょっと病室出てるから」

 そう言って、ふたりは病室を出て行った。待たせても悪いので、手早く体を拭く。パジャマを脱いだついでに、持ってきていた制服を着た。もういいよ、と表に声をかける。病室に入ってきたふたりは、そんな俺の姿を見て、なぜか眼を丸くした。

「如月くん?なんで制服着てるの?」

 七海さんがさも意外そうに尋ねてくる。

「なんでって、昨日、持ってきてたからだけど」

「そうじゃなくて。制服を着る理由を聞いてるんだけど」

「いや、だって手術も終ったし、今日、月曜だし」

「月曜って、今日から学校に行くつもりなの!?」

 七海さんは驚き半分呆れ半分といった口調で言った。

「そんな、せめて今日くらいお休みして、休養とらないとダメですよ!」

 さくらちゃんも七海さんに続く。

「でも、もうなんともないから……」

 そんな俺の言葉を、七海さんが遮った。

「なんともないって、さっき真っ青だったじゃない」

「あれは手術のせいじゃないし……」

 なおも食い下がる俺に、すかさずさくらちゃんが言う。

「でも、体調が悪いことに変わりはないじゃないですか」

「とにかく、今日一日だけでも、ゆっくり寝てなさい。これは友達としてだけじゃなく、医者の娘としての忠告だからね」

 ふたりの説得に、俺はしぶしぶ肯こうとして……。

「そうだ、すずが……」

「大丈夫です。双七さんに渡すものがあったのでわたしはこっちに来ましたけど、すずさんは美羽ちゃんと登校する予定になってます。帰りはわたしも一緒に下校しますから。お昼も一緒に食べる約束したんですよ」

 さくらちゃんは嬉しそうにそう言った。

「なにかあったらすぐに連絡しますから」

 さくらちゃんのその言葉に、俺は今度こそ肯いた。が、一方で新たに疑問が出来た、というか、忘れていた疑問を思い出した。

「ところでさ、その渡したいものってなに?」

 俺の疑問にまず声をあげたのは七海さんだった。

「姉川さん、まだ言ってなかったの?」

「あ、その、色々あって……。えー、こほん、では、気を取り直して。双七さんにお渡ししたいものとは――これです!」

 さくらちゃんは鞄の中から布に包まれた長方形の物体を取り出した。

「……これって、もしかして、お弁当?」

「正解です!昨日の夜、すずさんと美羽ちゃんとわたしで今日のお弁当を作ろうって話になって、今朝作ったんです。それでどうせならわたしたちの分だけでなくて双七さんの分もってことになって。すずさんもちゃんと手伝ってくれたんですよ。」

「すずが?」

 すずがさくらちゃんや美羽ちゃんと協力してお弁当を作って、一緒に食べるという。手術の前日の夜のこと、「これでもね、最近結構楽しんでるから」というすずの言葉を思い出した。あらためて嬉しさがこみ上げてくる。

「はい!おにぎりに海苔を巻いたり、ウインナーを串にさしたり……海苔もウインナーも、ちょっと足りなくなっちゃいましたけど」

 そのさくらちゃんの言葉にかくんと肩を落とした。またつまみ食いしたな、あいつは。

 あ、あはははは、とさくらちゃんは気まずい笑いで誤魔化して続けた。

「でも、最初はあまり乗り気じゃないようだったすずさんも、だんだん一生懸命になってくれて、みんなで頑張ったんですよ」

「そっか。ありがとう。俺も今日の昼食にいただくよ。……あ、でもいいのかな、入院中なのに病室でお弁当食べたりして」

「基本的に入院中の患者さんは病院食なんだけどね。許可してもらったわ」

 七海さんのその答えに、つい笑みが漏れた。病院食がそれほどまでに美味しくなかった、というわけではないけれど、やはりさくらちゃんたちの料理には数段劣った。しかも今日のお弁当はすずも一緒に作ってくれたというのだ。食べたくないはずがない。そんな俺の様子を見て、七海さんが言った。

「如月くん、気持ちは解かるけど、あからさまに嬉しそうな顔しないでよ」

「え、あ、ごめん。つい」

「ふふっ、冗談よ。それじゃ、わたしたちは学校に行くから、如月くんは今日の夕方まではしっかり休んでて」

「今日一日はゆっくりしてないとダメですからね」

 そう言うと、ふたりは病室を出て行った――と思ったのだけれど、ぱたぱたぱたと足音を立ててさくらちゃんが戻ってきた。

「どうしたの、何か忘れ物?」

「あ、はい、ちょっと」

 さくらちゃんはそう言うと、大きく深呼吸する。慌ててたみたいだからなぁ。そう思って、さくらちゃんが落ち着くのを待っていると

「これでバッチリです!それではこんどこそ、失礼します」

 と、何も持たずに笑顔で出て行ってしまった。いったいなんだったんだろう。そう思ったのも一瞬。部屋中に微かに漂うのは、琥森島のあの森の香りだった。

 そうか。さくらちゃんの人妖としての能力を思い出す。人が一番落ち着く香りを出せるというその力。そうなのだ。俺にとって落ち着く香りとは、あの森の香りなのだ。琥森島であったのは決して悪いことばかりではなかったのだ。決して後悔することばかりじゃない。うなされるようなことばかりじゃない。いい思い出もあったのだ。両親から切り離され、独りぼっちになったとき、薫お姉ちゃんはやさしかった。九鬼先生は俺と向き合い、九鬼流を教えてくれた。すずはいつでも、俺のそばにいてくれた。次々と思い出す。薫お姉ちゃんがいて、先生がいて、すずがいて、そして、今の俺がいる。

 だから俺は、あの島のことを覚えていよう。辛かったことも、楽しかったことも。新たな輝かしい日々の中で、あの病院の景色は徐々に色彩を失いつつあるけれど、それは決して悪いことではないと思うけれど、それでも俺は、武部涼一だったころの俺のことを忘れないでいよう。憶えていよう。

 森の香りに包まれてまどろみながら、そんなことを思った。自分では大丈夫だと思っていても、体は疲労していたのか、ベットに横たわっていると睡魔が襲ってくる。その眠気に任せて眼を閉じた。

 今度は、悪夢は見なかった。

 

 

 

 四時間目の授業は自習だった。

 教室では、昼食や昼休みの計画に余念のないクラスメート達が、他クラスに迷惑をかけないよう抑えられた声でおしゃべりに興じている。勉強にいそしむ者も、いなくはなかったが、少数派だ。わたしたちはまだ一年。受験からやっと開放され、学園生活を楽しみたい時期なのだ。

 そんな中、わたしも自習する気になれず、外に目を向ける。校庭では体育の授業中の生徒たちが、サッカーをしていた。先ほどから、そのサッカーボールの行方を視線で追いつつ、頭では別のことばかり考えていた。

『逃亡者とか、関係ありません!前にも言いましたけど、わたしのスタンスは変わりませんから!』

 彼に、如月双七に向けて自分が言った言葉を思い出す。

 同時に、会長と刀子先輩の人妖能力のことを気にして『異性として見ない』という決着しか付けられなかった自分を、弱い自分を振り返る。

 あの時、わたしは、弱かったのだと思う。会長も刀子先輩も、とっても良い人で、なのにわたしには、あんな方法でしか受け入れることが出来なかった。もし、別の形で受け入れることが出来たら、どうなっていただろう。それはわからない。当時のわたしは、受け入れるだけの気持ちがなかった。その事実があるだけ。

 けれど今度は、違う。わたしは強くなりたい。強くなる。妖怪だとか、爆弾を埋め込まれているとか、そんなことに関係なく、その人たち本人を見つめる、そんな強さを持ちたい。そして、確かめてみたい。彼に対するこの気持ちが、なんなのかを。

 だから、迷わない。わたしのスタンスは変わらない。変えない。今度こそ。

 うーん、と伸びをひとつ。気持ちに整理をつけると、スッキリした。そうと決まれば、さっそくすずさんと美羽ちゃんとお昼ご飯だ――と、ふと、気がつくと、校庭にはサッカーボールも、体操服を着た生徒の姿もなかった。

「あれ?」

 後ろから友達の声が響く。

「さくらー。今日は生徒会の友達とお昼食べるんじゃなかったの?四時間目、もうとっくに終っちゃったよ」

「ああぁ!そんなぁ!」

 わたしは大慌てで教室を飛び出した。

 

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