郷導者の詩2

 『あやかしびと』及び『あやかしびと―幻妖異聞録―』の、如月すずシナリオ「輝かしき日々、再び」エンドの後日譚の二次創作SSです。

 八咫鴉と静珠の話(前編後編)と、双七とすずの話(前編後編)の四部構成になっています。双七、すず編(前編)を読む場合は最下部のリンクをクリックしてください。

 『あやかしびと』及び『あやかしびと―幻妖異聞録―』のネタばれを含みます。ご注意ください。

 

 

「静珠!」

 人の姿となり、森に降り立つ。銃弾を受けた足がじくりと痛む。

 霊峰の中の、比較的開かれた場所。草いきれの青い薫りに混じり、たちこめる濃い血の臭い。そして周りには人間の死体、死体、死体、死体、死体、死体……。

 この結果が、静珠の望まぬものだと、彼女が自らの命を投げ出してまで避けようとしたものだと解っていながら、自身を止めることが出来なかった。我を忘れ、役目を忘れ、戦いに向かぬ己の力を暴走させ、その場のすべての人間を、殺した。それは郷導者として、それ以上に彼女の夫として、最低の行為。だが、それでも止めることが出来なかった。

 体中の痛みを無理矢理押さえつけ、彼女の元へ駆け寄る。

(あなた……)

 静珠の心が流れてくる。

「すまない。遅くなった」

 言って彼女を見つめる。彼女は私以上に酷い状態だった。九尾の狐本来の姿に戻った彼女の体は、血に濡れていないところはなく、金毛は所々抜かれ、肌をさらしていた。九つの尾は一本を残しすべて切り取られ、傷口からはドロドロと泡立った血が滴っている。

 もう助からない。頭のどこかで結論が冷静に弾き出される。自分の知覚をこれほど憎いと思ったことはない。全力で否定し、声を搾り出す。

「大丈夫。鴉天狗たちもこちらに向かっている。すぐに治療するから……」

 海外で異変を感知した私は、自身の力でいち早く駆けつけた。鴉天狗たちも全力でここを目指しているはずだが、もうしばらく時間がかかる。

 だが、彼女はゆっくりと首を振った。

(私はもう、いいのです。それより、あの娘のことを、どうか、よろしくお願いします。私は、最低のことを……。せっかく友達を殺された時の傷が癒えてきたというのに、あの娘をまた辛い目に……)

 静珠の言葉と共に、その時の光景がかすかに流れてくる。銃を持って狂騒に笑う人間たちと、その様子に目を見開き、静珠の陰で体を震わせる我が娘の姿が。涙に濡れ、細かく震える瞳に映るのは、限りない憎悪と、それ以上の恐怖。

 心臓が凍りついたかのような衝撃。体中を蝕む後悔。娘が九尾の狐だからではない。ただ純粋に、娘にこんな顔をさせてしまった、それが悔しくて仕方がない。私はなぜ、もっと早く駆けつけることが出来なかったのか。

(私には、あの娘を逃がすことしか出来ませんでした)

 娘に言霊を憑けて転移させたことや、結界を施した島のことを伝える静珠に、なにを言えばいいのか判らず口を開き、

「わかった。わかったから……」

「ハハハハハッ、さしもの八咫鴉も形無しじゃのう」

その笑い声に、遮られた。

「おまえはっ!」

 目の前に現れたのは軍服に身を包んだ初老の男。だが内包する妖の気配は隠すことが出来ない。そして、この気配は……。

「ふん、鴉の癖に鼻が利きよるわい。いかにも。我は、九尾の狐、幻咬が一尾、天なり。おぬしと静珠にはさんざ煮え湯を飲まされたでな。こうして、わざわざこちらから返礼に出向いたというわけじゃよ」

 言って心底愉快そうに嘲り笑う。

「そうか、人間たちの暴走は、おまえの仕業か」

「ふん、正しくは我と同じ幻咬の尾である中の、じゃがな。あやつは虚言で人の心を誑かすことぐらいしか出来ぬ駄尾じゃがな、なかなかどうして、こういうときには役に立つもんじゃて、ほれ」

 そう言って多くの人間の死体と瀕死の静珠を見やる。

「黙れっ!」

 脇に差していた小烏丸を鞘から抜き、全力で飛び掛る。刃先が天の頭を捕らえようと走ったその瞬間、相手の持つ刃に食い止められた。

 金属を打ち付けあう甲高い音が森に響き渡る。

 二撃、三撃、撃ち重ねるも、そのすべてを天は受け止めた。

「ほう、これまた恐ろしい霊刀じゃのう。こんなもので切られてはたまらんわい。じゃが……」

 不意に力が込められ、切り結んだ刀ごと、怪力で吹き飛ばされた。たたらを踏んで、あとずさる。こけないように体制を整えるので精一杯だった。

「使い手がおぬしでは宝の持ち腐れよ。特に人間どもを打ち払うのに力を使い切った今のおぬしなど、恐れるに足らん!」

 奴の言うとおりだった。近くに隠れているもう一尾、おそらく中と呼ばれた尾は、気配を感じる限りたいしたことはない。だが、目の前の天は違う。妖力、腕力、共に今の私でどうこうできる相手ではなかった。

 あるいは森に隠れ、木の陰から隙を狙えば、天の不意をつくことが出来るかもしれない。だが、それは敗北を意味する。これは勝つための戦いではなく、護るための戦い。私の後ろには静珠がいるのだから。

 勝機は、限りなく薄い。

 だが。

 引くことは出来ない、引くわけにはいかない。天は目的を、静珠への復讐を、どういった形で成就しようとするか。ただ殺すだけで済ますだろうか。次々と切られた尾。それは静珠を苦しませるだけのものだったのか。静珠の体を奪い、支配し、再び完全な九尾の狐として君臨せんとしているのではないか。そんなことをさせるわけにはいかない。

 そして、なにより、静珠をここまで傷つけ、娘を悲しませたこの男を、許せるものか!

「ふっ!」

 小烏丸を両手で構え、天の咽喉めがけて突く。

「むっ」

 刀を切り結んでも、力で押し返される。ならば突きで攻める。幸い、力とは違い、動きの速さではそれほどの差はない。ならばっ。

 手数を多くばら撒きながら、その中で、咽喉を、鳩尾を、あらゆる人体の急所を狙った一撃を放つ。

 だが、天はそのすべてをかわす。その顔には余裕の笑みすら浮かべて。

「くっ……」

 焦りから力の入りすぎてしまった一撃が、あっさりと避けられる。腕が伸びきったところで、

「甘いわっ!」

 無雑作な横なぎの一撃。小烏丸を弾かれた。天が技術的に優れているわけではない。だが奴の身体能力が、その剣戟を非凡なものとしていた。

「うあ」

 腕がしびれる。なんとか小烏丸を手放さずにはすんだが、その隙を天が見逃すはずもなかった。ここぞとばかりに攻勢に出る。

「カカッ!どうしたどうした、天照大神の使いが聞いて呆れるぞ。」

 剣戟に継ぐ剣戟、上から振り下ろされたかと思うと、横からの薙ぎ、かと思うと下方から胴を狙われる。その一撃一撃を避け、流し、その度に身を削られ、血が噴出す。

「ちっ」

 どうする、そう考えているうちにも、右上腕部からあらたな出血。まずい、このままでは刀もろくに握れなくなってしまう。速めに勝負に出でなくてはならない。

 天の上段の一撃が振り下ろされるその前に、自ら全力で前に踏み込む。まだ力の乗らないうちに天の刀の鍔に小烏丸を全力で打ち込み、

「甘いと言っておる!」

 力任せに弾き飛ばされた。

「がっ、はっ……」

 背から木にぶつかり、気を失うほどの衝撃。駄目だ、ここで崩れ落ちるわけには行かない。小烏丸を杖のように地面に刺し、なんとかひざを突くことを逃れた。

「ハハハハッ!弱い、弱すぎるぞ、八咫鴉。いくら力を放出した後とはいえ、これでは歯ごたえがなさすぎるわ!」

 柄を握る手が血で滑る。持ち手から柄を伝い、鍔にまで血がたまる。血液の流れすぎで頭が霞む。力のない自分が怨めしい。いつか静珠に洩らしてしまったあの言葉が、再び胸を突く。

 これで護国の霊鳥だというのだから情けない。我が妻すら、護れないとはっ……!

(あなた、私を、殺してください)

 突如、静珠の声が頭に響いた。

(静珠、なにを……)

 そう返事をしながら、頭の中ではそれしかないと理解していた。していたが、納得したくなかった。

(おねがいします、まだ私の意識があるうちに。この傷では、もう助かりません。彼らに利用される前に、この体を消滅させてください……)

 そうだ。国と静珠の魂、ふたつを護るためには、それしかない。もちろん、天や中に九尾の狐の体を奪われるわけには行かない。しかし、それだけではない。

 もし天に尾をすべて切られれば、静珠の魂は歪み、妖狐のものと認識されず、誰も存在しない幽世へ送られてしまう。だが、尾がまだ一本でもある今ならば、静珠の魂も無事に妖の幽世にもたどり着くことが出来るのだ。そのためには、私の手で静珠にとどめを刺さねばならない。

 そんなことが……。

(わかった)

(あの娘のこと、お願いします)

(ああ)

 決断は一瞬。そう。私は郷導者。あらゆるものを犠牲にしても、護国のために最善を尽くさねばならない。だから、決断する。

 逆上に身を任せ、唆されていた人間たちを殺してしまった。これ以上駄々をこね、彼女に情けない己を見せるわけにはいかないではないか。

「さて、遊びもここまでじゃ。あまり時間もなさそうじゃからの。お主にはここらで退場して……ん、なんじゃ?」

 天が異変に気づく。だが遅い。術を解き放つ。自らの力の一部を代償に、神獣、九尾の狐の体すら消失させるその力を。

 青白い光に包まれる静珠の体は、その光に溶けるように消え始めた。

「なっ、八咫鴉、おぬし、なにをした!」

(ありがとうございます。それと、ごめんなさい、あなた)

 申し訳なさそうな静珠の声。やはり気づかれていた。術の代償。全身から力が抜けていく。そして、失うのは力だけでなく、幽世にとどまる権利さえも。それは静珠との長い離別を意味する。悲しみと、それ以上の、己への怒り。静珠を助けることすら出来ず、その上、今また彼女にそんな声を出させている自分への憎悪。

 だから、言う。あえていつもの軽い口調で。彼女がせめて、心安く幽世に旅立てるように。

「ああ、私のほうこそごめんね。少し待っててよ。用が済んだら、私もそっちに行くからさ」

(……はい)

 それは別れの刹那に交わした、再開の約束。

 苦痛にゆがんでいた静珠の狐の顔が、小さく微笑んだ気がした。その次の瞬間、護国の霊獣、九尾の狐は現世から完全に消滅した。

「お、おのれぇ!」

 事態を理解した天が叫ぶと同時に、

「天!まずいぞ!鴉天狗たちの集まりが思ったより速い!」

 軍服を着た男がもう一人、森の影から姿を現した。人間の姿をしていても気配はやはり妖のそれだ。こいつか中か。

 中のほうは振り向かず天は

「わかっておる!さすがに八咫鴉だけでなく鴉天狗たちも相手にするのは難しいか……まあよいわ。静珠への復讐は成したからの。静珠の娘もおぬしも、いずれ必ず滅ぼしてくれようぞ」

 その言葉と哄笑をこの場に残して去っていった。

 後に残されたのは、人の死体の山のみだった。

 静かな風に、森の木々の葉が小さく泣いた。

 崩れるように膝を突く。体中から力が抜けていく。

 地面に拳を叩きつけた。

 ……私の、せいだ。私のせいだ、私のせいだ、私のせいだ!なぜ天と中が政府の中枢に潜り込む前に、滅ぼすことが出来なかった。なぜ連中への注意を怠り、迂闊に日本を離れたりした。なぜもっと早く帰ってくることが出来なかった。なぜ、なぜ、なぜなぜなぜ!

 拳に血が滲み、じりじりと痛みを訴える。かまいはしない。すでに全身が傷だらけだ。いまさら拳をかばってなんになる。あるだけの感情を込めて、何度も何度も叩きつけた。

 鴉天狗たちの気配が近づいてくる。これは彼らが到着するその時までの短い時間に許された、悔恨の時。彼らを目の前にした私は、揺ぎ無い郷導者でなくてはならない。人と妖を導く、神の使いでなければならない。

 だから、立ち上がる。彼女と共にあった、護国の霊鳥として。彼女の愛した男として。

「御頭、遅くなりました」

 程なく、鴉を筆頭に、烏天狗や狗賓たちが集まる。その頃には、普段の冷静な態度を取り戻していた。力の代償に体が少々縮んでいたが、問題はない。手短に状況と今後の対応を説明する。最後に、

「連中が明治政府の中枢にいる以上、今は手が出せない。ただ、警戒は怠らないように」

 そう締めくくり、指示が終ったところで、鴉が尋ねてきた。

「それでは御頭。島のほうはいかがなさいますか?」

 その一言で察しがつく。あの娘が送られた島のことだ。

「静珠の結界は強力だからね。あの娘には『母恋しさに森の外へ出ることはならぬ』と言霊を憑けたと言うし、こちらからなにかしない限り、誰にも見つかることはないだろう。もしもの時のために島を監視させて、後は……そっとしておきなさい」

 あの娘の安全を考えるならば、それが最良だった。会いたくないはずがない。今すぐにでもあの娘のもとに行きたい。どうして助けてくれなかったのかと責められても、嫌われても、憎まれても、かまわない。私にはその憎悪を受ける責任がある。そのすべてを受け止めたい。

 だが、だがしかし、自分の一時の感情で、あの娘を、静珠が護ったあの娘の命を、危険にさらすわけには絶対にいかない。彼女とあの娘の窮地を助けられなかった自分が、自らのエゴであの娘の前に現れることだけは許されない。

 結局、私に出来ることは、娘がその島で、母の死も、友達の死も、友と母を殺した人間のことも忘れ、ただの狐として穏やかな日々をすごせるよう、影から見守ることだけだ。

 あの娘の傷を、癒すことすら出来ない。

 あの娘の憎悪と恐怖に満ちたその表情を思い出す。胸が掻き毟られる様に疼いた。

「それでよろしいので?」

 鴉の確認の問いに、

「ああ」

 私はそう肯いた。

 

 

 

 幽世、魂の安息の場、穏やかな空気に包まれたその中で、彼が難しい顔をしていた。

「あなた、どうしました?」

 見当はついていたが、そう尋ねる。彼はゆっくりと落ち着いた口調で答えた。

「ん、ちょっと考え事をしてただけ」

「あの娘と……すずと双七さんのことですか?」

 かなわないなという風に、彼は笑った。

「ああ。奇妙な縁だと思ってね。如月双七の先祖があの鍛冶屋の武器の付喪神だったとは、見抜けなかったよ」

「奇妙な縁、ですか。そうですね」

 妖に村を滅ぼされ、人生を狂わされた鍛冶屋。

 その鍛冶屋によって人間への憎悪と恐怖を植え付けられた娘と、その鍛冶屋によって妖怪を殺すために作られた武器の付喪神の子孫。

 目の前で人間に友達を切り殺され、母を虐殺され、自らも殺されかけながら、それでも双七に愛されて、生徒会のメンバーと心を通わせて、人と妖の垣根を越える勇気を持った如月すずと、人妖であるがゆえに両親に捨てられ、孤島の施設に収容され、飯塚薫に裏切られ、九鬼耀鋼に置いていかれ、それでもすずに救われて、人を愛する青年に育った如月双七。

 ふたりが出会い、救いあい、人と妖の壁を乗り越えて、愛しあう。

 それは人と妖の軋轢から始まった、未来への絆。

 めぐり巡った偶然ながら、約束されたふたりの出会い。

「私は双七さんのような人がすずを好きになってくれて、良かったと思いますよ」

 そう、百年もの間、悩み続けた。天と中の率いる軍勢に襲われたときのあの選択は、間違っていたのではないかと。すずにとって良かったのかと。

 そして、今なら言える。あの選択は正しかったと。

 あの島で武部涼一と遊んでいたすずは、本当に楽しそうで。

 今、友達と、そして愛する男と共に過ごすすずは、本当に幸せそうで。

 それは武部涼一の、如月双七のおかげだ。

「まぁ……そうだね」

 彼はそんな風に歯切れ悪く答えた。

「認めているのでしょう?彼のこと」

「そりゃあ、まあ、そうなんだけど、なんかやっぱりむかつくなぁ」

 愛するものと日常を護るために、自ら人であることを捨て、自分が人の世界に交わることが出来ないと解りながらも、断固たる意思で人間として戦った如月双七。

 そのあり方は、あなたに似てさえいるではありませんか。

 そんな言葉を飲み込んだ。

「あのふたりなら、大丈夫ですよ」

 それだけを口にする。あのふたりなら、輝かしい日々へと、より良い日々へと進んでくれる。私たちの後を受け継いでくれる。そう信じたからこそ、彼はここにいるのだから。

「まあね」

 すこし不貞腐れたようにそっぽを向く彼は、ちっとも変わっていなかった。どこか子供っぽいその仕草の裏で、神の使いとして、郷導者として、妖と人間を護るために尽力し、幻咬をも狂わせた人間の醜悪さを、妖の邪悪さを、何千年もの間、一身に受け続け、それでも我を見失わず、国の進むべき道を示し続けた。妖を、人を、愛し続けた。

 だからこそ、愛した。この不器用で、少しひねくれた、それでいてまっすぐな男を。

「あなた」

 愛おしさに、彼のほほを撫でる。

「なんだい」

 ちょっと驚いたように、彼が振り向く。

「おつかれさまでした」

 私の言葉に、彼はくすぐったそうな笑顔を返した。

 

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