郷導者の詩1

 『あやかしびと』及び『あやかしびと―幻妖異聞録―』の、如月すずシナリオ「輝かしき日々、再び」エンドの後日譚の二次創作SSです。

 八咫鴉と静珠の話(前編後編)と、双七とすずの話(前編後編)の四部構成になっています。八咫鴉と静珠の話(後編)を読む場合は最下部のリンクをクリックしてください。

 

 『あやかしびと』及び『あやかしびと―幻妖異聞録―』のネタばれを含みます。ご注意ください。

 

 その青年は、不可思議だった。

 天照大神の使い、護国の霊鳥、妖というよりは神に近いその男は、威厳ある言動をしたかと思うと、急に軽々しい言葉づかいをしたりした。

 それは駄々をこねる童のようで、皆をまとめる長老のよう。

 妖と人間を導く役割を持ちながら、人間を信用しない。そのくせ人を正しく導くためには非情な決断をも躊躇なく下し、影で自らを責め続ける、そんなひねくれものだった。

 最初に彼が、まだそう歳を経ていない私の元に現れたのも、私が人に災厄をもたらす存在となるかどうかを確かめるためだった。

 さわやかな秋風に冷たさがかち始めた晩秋の、ある晴れた夜のことだった。月の光もまばらにとどく、紅葉に包まれた森の中、サクサクと落ち葉を踏み分ける軽快な音と共に、彼は現れた。

 人目を避けるため人間に化けていた私に合わせ、人の姿をした彼は、人間でいうと年の頃十八歳前後、精悍でありながらどこか幼さを残し、しかし、黒い瞳に意志の強さを宿した青年だった。秋風に紅葉が舞い、私と、彼の黒髪を揺らした。

「君が、静珠かい?」

 彼の中性的な声が森に響いた。

 彼は、九尾の狐である幻咬のこと、殷のこと、天竺のことなどを話し、私が悪心に染まることがないか確かめにきたと、真っ正直に告げた。どうしてそんなに簡単に本当のことを言うのかたずねると

「私の見立てじゃ、君は大丈夫のようだからね。見る目はあるつもりだよ。これでも一応神獣だから」

 と、あっけらかんと言った。その言い様がおかしかった。

 そして、彼はたまに尋ねて来ては、妖の世の話を、人間の世の話を、そして、たわいもない話をしていった。時が立つにつれ、その時間は待ち遠しいものとなっていった。

 話の内容は、必ずしも楽しいものばかりではなかった。特に人間の悪心に関する話は、気持ち悪くなるものも多くあった。だが、そんな悪心に実際に触れたとき、飲み込まれてしまうことがないようにと、彼は包み隠さず話し続けた。

 そんな話を最後まで聞き続けることができたのは、その時間を楽しいと感じることができたのは、彼がそれらの悪心と真正面から向き合い、それでもなおよい方向へ導こうと常に努力していることが、わかったからだった。飄々とした喋り方や、子供っぽい言動の裏に、確固たる意思と決意を秘めていると、わかったからだった。

 彼の影響もあったと思う、妖だけでなく、人も正しい道を進めるよう、できる限りのことをしようと心に決めたのには。

 そんな風に自然と人と妖を導く彼が、不可思議だった。

 その霊鳥の名を、八咫鴉という。

 

 

 

 その少女は、不可思議だった。

 人間を凌駕する力、未だ農耕民族足りえず、国を作ることも知らない人間たちを唆し、支配する力すら秘めているはずのその大妖怪は、人を謀るどころか、人間に襲われようと、迫害されようと、決して報復することはなかった。

 殷を滅ぼし、天竺に災厄を振りまいた悪狐、幻咬。この国にもその幻咬と同じ九尾の狐たるべき妖狐が生まれ、育っていた。私の役割はその妖狐が幻咬のように人間の悪心に染まることがないか判断すること。そしてもしもその妖狐が邪悪な存在となるようならば……。

 だが、この国にひとつの「国」としての纏まりがなく、人間の悪心を統制する法や秩序も未成熟であったにもかかわらず、その妖狐は悪心に染まってはいなかった。彼女はどこまでも静かで柔らかい、温和な妖狐だった。

 郷導者である私にとって、その一点がわかれば十分なはずだった。

 だから、その少女に興味を覚えたのは、純粋な疑問から。

 少女は強大な力を内に秘めながら、おのれに降りかかる火の粉すら、払うことに躊躇した。近くに人間が住み着けば、自ら逃げるように他の場所に移った。住む森を焼かれても、不平のひとつも言わなかった。彼女の能力をもってすれば、追い払うことも、人を寄せ付けないことも、簡単だったはずなのに。

 その事実が、私には不可思議だった。

 その妖狐の名を、静珠という。

 

 

 

 静珠との出会いから数百年がたった。尻尾も生えそろい文字通り九尾の狐となった彼女は、やわらかな金毛と、微かに濡れた瞳に、見るだけで惹きこまれそうな妖しさを持った妖狐に育っていた。そして、そうでありながら彼女の顔は常に、見るものを安堵させる慈しみに包まれていた。

 その相反する印象は、人の姿に化けた時も変わらなかった。輝く金色の髪に包まれた桃のような頬と唇に、微かな、温かい笑みを浮かべる。その妖しさと温和のなかに神聖さを含んだ彼女に、私はいつしか好感以上の感情を持ち始めていた。

 以前、彼女に尋ねたことがある。

「本当は私の立場のような者がこんなことを言うのはマズいんだけどね、どうして言霊を使わないんだい?君は妖の中でも最高位の大妖怪、そのうえ、妖が人とうまく共生できるようずっと尽力している。人間に仇をなすならともかく、侵入者を追い払うくらいはしてもバチは当たらないと思うんだけどね」

 私が言うんだから間違いないよ、そう冗談めかして笑う。静珠はしばらく考え、ゆっくりと自分の気持ちを確認するように言った。

「人の歩みを、人が進歩しようとするその努力を、妨げたくないから」

 慈しむように、彼女は言った。人は私たちに比べて不完全だけれど、だからこそ、進歩しようと努力する。より良い未来へと進もうとする。それは妖が持たない、人の力。だから、その歩みの妨げになりたくない、と。

 その姿が私には眩しく、それだけに危うくも見えた。軽く釘を刺すつもりで

「けれど人は、その歩みを間違ったほうへ向けることも多々ある。その愚かさ故にね。なんでも人の思うとおりに、というのはあまりに危険だ」

 私の言葉に、静珠はいつも以上の穏やかな笑みを浮かべ

「だから、あなたがいるのではありませんか」

 そう言った。

 その不意打ちの返事に、頭が真っ白になった。当たり前のその内容が、初めて耳にしたような新鮮さで響いた。

 日本は、国土全体までには至らないまでも、国家という単位を得ていた。それ以来、政権の内で相次ぐ政争、天皇家との長き外戚関係を作り上げるもの、僧という身分にありながら神託を捏造するもの、政敵を次々と暗殺、失墜させるもの、肉親であっても利用するだけして裏切るもの、奪い、騙し、殺し、国を我が物にしようと渦巻く様々な悪心を見つめてきた。そんな倦んだ心を、人間を導いてきた。

 その中で、なぜこのような愚かなものたちを導かなければならないのか、そんな小さな気持ちが、生まれていたように思う。その気持ちが洗われたような気がした。

「……そうか、そうだね」

 人間は、愚かだからこそ知識を磨き、不完全だからこそ進化する。それらは表裏一体のもの。人の欠点にして、人の最大の力。だから、導かなければならない、人が自らの足で歩んで行けるその時まで。そんなことを、思い出させてくれた。

 あるいは他のものに言われては、その言葉はそんな効果を持たなかったかもしれない。妖を、そしてそれだけでなく人間をも愛し、見守っていた静珠の口から出た言葉だからこそ、意味があった。

 そのあり方を、美しいと思った。

 そして、そんな彼女から寄せられた信頼が、うれしかった。

 秋口の涼しい夜、ふたりして川岸に座る。そよ風が私の頬をなで、静珠へと届いた。彼女の金色の髪が風に揺れ、月光に輝いた。

 さわさわと流れる清水に、まつぼっくりがひとつ、浮かんでいた。小さく、ゆらゆらと揺れながら、浮きつ沈みつ、川を下ってゆく。

 ほんのつかの間の休息の時、その様子をふたりで眺めていた。

 

 

 

「やあ、お疲れさま」

 彼はいつものように、軽い口調でねぎらいの言葉を述べる。けれど、素直にその言葉に肯くことは、できない。

「すいません。二尾、逃してしまいました」

 玉藻前に化けた幻咬の正体を暴き、七つの尾を封印するまではうまくいった。源翁に化け、殺生石を封じることにも成功した。しかし、その封印の時、二尾を逃してしまったのだ。

 本当は今すぐにでも追跡し、封印すべきだが、自分の疲労はすでに限界を超えていた。七つの尾を二百年かけて封じてきた疲れもあり、また、幻咬本体の毒素はそれ以上に体中を蝕んでいた。体を動かそうにも足は痺れ、腕は重く、全身が鉛のよう。

 彼は私の状態を一目で理解したらしい。起き上がろうとする私を押しとどめるように言う。

「いや、気にしないでくれ。逃げた二尾のほうは、鴉天狗たちに追わせている。君は、いまは眠り、体を休めてほしい。……私のほうこそ、君に頼りきりで済まないと思っている」

 心底気落ちした様子の彼。

 この郷導者の、普段あまり見せない様子が、不思議だった。

「導く力のあるものが道を示し、護る力のあるものが敵を討つ。当然のことですよ」

 私の言葉に、彼は

「しかし……私は力のない自分が怨めしい」

 そんなことをいった。人を導くため、妖と人が共生できるため、常に正しい道を選択し、その重さにひとりで耐えてきた彼が、小さな細い声で。

 この霊鳥の、珍しく弱気な発言が、意外だった。

「あなたの人を導く力は、掛け替えのないものではありませんか」

「だが私は、君が戦い傷つく姿を眺めていることしかできない!」

 彼の、感情がない交ぜになった言葉に、驚かされた。それは彼自身の懺悔であると同時に、私への気遣い。彼がいつもの軽口の裏に隠し持っていた感情。

「……すまない」

 顔を背け、彼はそう言った。

 怒鳴ったことへの謝罪だけではなかったと思う。自身の感情をあらわにしたことへの恥ずかしさ、救いを求めるような弱さを発してしまったことへの後悔、そして、軽口の影に隠してきた、そんな自分を曝け出してしまったことによる、恐れ。

 様々な感情のない交ぜになった彼のその声が、うれしかった。

 どこか飄々とした上辺のおくにある彼の本心に触れられたことが、うれしかった。

 その本心をさらけ出した相手が私であることが、うれしかった。

 自分でも不思議になるくらい、うれしかった。

「ふふっ」

 思わず笑みがこぼれた。

「ど、どうしたんだい」

 ばつが悪そうに、彼がどもる。

「あなたにできることが、もうひとつ見つかりました」

「えっ、なに?」

 彼は言って少し目を見開く。

 今日はいろいろと彼に驚かされた。最後に一度くらい私から驚かしてみよう。これまで叶うことは無いと自分に言い聞かせていたその感情に、身を任せてみよう。

 私はおっかなびっくり、そっと腕を伸ばし、彼の手を握ると、呟いた。

「眠るまでの、少しの間だけ、傍にいてください」

 その後の真っ赤で慌てふためく彼の顔は、生涯忘れられないものとなった。

 

 

 

 人間は変化を、進歩を望む。より良い明日を求め、歩み続ける。集落を作り、田畑を耕し、森を切り開き、徐々に徐々に、妖のすむ領域をも侵し続ける。

 時は江戸、妖は人に押し出されるように、山の奥へ奥へと逃げて行く。そんな中で、ひとつの事件がおきた。

 鬼による、村人の虐殺。それはあらゆる地方で起こりつつあった、人の世と妖の世の軋轢だった。私の駆けつけたときには、既に村人は皆殺されていた。……ただ一人を除いて。

 たまたまその日村を離れていたその鍛冶屋は、自らの恨みを込めた武器を作り続けた。妖を殺すための武器を、作り続けた。一日たりとも休まずに、何年も作り続けた。

 私はその地にとどまり、鍛冶屋を見守り続けた。それが、事件を防げなかった自分の、せめてもの罪滅ぼしのように思った。

 十年が経ち、娘が鍛冶屋の家に出入りするようになった。鍛冶屋からもらった鈴をうれしそうに鳴らす娘に、妖と人が交わる道はまだ有るのではないかと、私ですら錯覚した。

 そして事件がおきた。

 鍛冶屋に殺された豆腐小僧は、娘のはじめての友達だった。娘は人に、狂気と狂喜に狂う人間に、恐怖した。人里に降りることもなくなった。そして、護国の霊獣たるべき幼いその九尾の狐は、人間を憎悪した。人間の悪感情をぶつけられるには、娘はまだ、あまりに幼すぎた。

 私には、娘を抱きしめることしか出来なかった。

 

 

 

「あなた……」

 後悔を滲ませて静珠が言った。娘の心に傷を負わせてしまったこと、罪なき妖を死なせてしまったこと、十年間憎悪にまみれた鍛冶屋を救うことができなかったこと、様々な悲哀が、その一言から感じられた。

「きみのせいじゃないさ」

 私には、彼女を抱きしめることしか出来なかった。国を導くため各地を飛び回り、娘と彼女の傍にいてやることすら出来ない自分が歯痒かった。

「人と妖が共に生きるのは、もう無理なのかもしれない」

 私たちがその結論に至るまで、時間は要しなかった。

 明治妖怪維新。人と対立しながらも妖怪として生きるか、妖の力を捨て人として生きるか、幽世に魂を移すか、三つの選択肢が妖に突きつけられた。

 私たちは妖として現世に残ることを選んだ。まだ、人と妖のためにすべきことが残されていたからだ。幻咬の二尾は人に化け、国家権力の中枢に潜り込んでいた。

 静珠と娘は、人里から遠く離れた霊峰の奥に住み移ることにした。娘の傷を癒すには、長い年月と平穏な場所が必要だった。

 娘はその傷を少しずつ癒していった。人の言葉を学び、人の考え方を学び、人に化けることも学んだ。

 上手に化ければ衣服も再現できるはずだが、娘はうまく化けることが出来ず、私はよく服を買いにいかされた。

「ほら、これなんてどうだい」

 京で買ってきた着物を娘に見せる。

「やだ」

 即答だった。どうも私の見立ては娘のお気に召さないらしい。

「まいったなぁ」

 そんな様子を見て、静珠は楽しそうに笑った。

 そんな穏やかな日々も、長くは続かなかった。

 

 

 

 人間たちの小銃が、ガトリング砲が、アームストロング砲が、憎悪の眼差しが、我が身と心を切りつけた。

 父の仇、母の仇、息子の仇、娘の仇、兄の仇、弟の仇、妹の仇、家族の仇、仇、仇、仇、仇仇仇!

 軍人たちは聴覚を捨て、精神を捨て、残りの生すべてを擲って、私を、九尾の狐を滅ぼさんと進軍する。

 けれど、どうしてもこの人間たちと戦うことは出来なかった。幻咬の尾に誑かされ、九尾の狐こそ愛するものの仇と信じ、我が国の怨敵と信じ、自らのすべてを犠牲に進軍する彼らを、どうして理不尽になぎ払うことが出来よう。

 最後の力を振り絞って娘を孤島に転移させ、そこに結界を張り巡らせた今、私に出来ることはもうなにもなかった。

 九つの尾が次々と切断されていくなか、思うは娘のことばかりだった。

(やだぁ、母様、わたし、やだよ!わたし、母様と一緒にいる!一緒にいる!)

 泣きはらし、しゃくりあげ、それでも叫び続けたあの娘。その顔は人間への憎悪に引きつり、その目は、人間への恐怖に濡れていた。それは長い時間をかけて癒え始めていたはずの傷。古傷を抉られた痛みに震えながら、それでも私に懸命にしがみついて離れなかったあの娘。

 私は間違っていたのだろうか。針のように胸を突く思い。けれど、それでも、私には他に方法が思いつかなかった。思いつかなかったのだ。

 私のその姿を、耳障りな笑い声と共に見つめる男がふたり。

 九尾の狐、幻咬の尾、本体より逃げた二尾。この人間たちの狂騒は、すべて彼らの仕業だった。

 そう解かっていながらも、九尾の狐を愛するものの仇と信じる人間たちに抵抗することが、私には出来なかった。愛するものを殺されれば、自分も正気を保っていられまいと思うと、出来なかった。そう、たとえ我が身が滅ぼされようとも……。

 ふと、そこに違和感を覚えた。

 本当に、彼らの目的は私を滅ぼすことだけなのか?

 全身が打ち震えた。それはどうしようもない恐怖。彼らの目的が復讐であればいい。だが、もし、それが器たる九尾の狐の体を得ることだったとしたら?仇たる私の体を利用し、九尾の狐として復活することだとしたら?

 そして、強大な力を手に入れた彼らが次にすることは……。

 自分が滅びることは、かまわない。妖の幽世に行けなくなることさえも。娘が生きてくれさえすればいいのだ。護国の任を果たせなくなろうとも、ただの狐として生涯をおくることになろうとも。後のことは、彼に任せることができるのだ。

 だが、自分の体が、彼と、彼との娘の脅威となることは、どうしても耐えられなかった。

(あなたっ……!)

我知らず手を動かそうともがく。だが、血まみれの体はそれすら不可能だと悲鳴を上げる。もう立ち上がることすら出来ない。

 人間たちの手が、最後の一尾にかかったその時。

 天から降り注ぐ青白い輝きが、周りの人間たちを薙ぎ払った。

 巨大な体に、三本の足、青白い輝きと静かな怒りを全身より放つ鴉の姿が、そこにあった。

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