刀子さん、頑張る 3 「善は急げど、膳は急がず?」

 

 

「さて、トーニャのお兄さんのことは各自気をつけるとして、肝心の刀子先輩のチョコレートについては、どうしましょう」

 伊緒さんの言葉に、美羽ちゃんがおずおずと手を上げた。

「あの、いいですか?」

「どうぞ、新井さん」

「はい、えっと……先ほど言ったように、すずさんは今、わたしと一緒にチョコレートを作る練習をしているのです。ですから、その、もしよろしければ、刀子先輩も私たちと一緒に練習してみる、というのはどうでしょう?」

 美羽ちゃんの言葉に刑二郎くんが、

「なるほど、いいんじゃねぇか?」

 と頷く。

 狩人くんも

「一人でああでもない、こうでもないと試行錯誤するよりは、教えあったほうが効率よさそうですしね」

 と同調した。

「刀子先輩、どう、ですか?」

 美羽ちゃんが私を遠慮がちに覗き込み、改めて尋ねてくる。

「それは、私としては願ってもないお誘いなのですけれど……すずさんは、それでよろしいのでしょうか」

「わたし?わたしは別にかまわないわよ。反対する理由もないし。それに大勢でやったほうが楽しいし。ね、美羽」

 すずさんの言葉に美羽ちゃんが、

「はいなのです」

 と頷いた。

「あ、ありがとうございます!それでは、よろしくお願いいたします!」

 おふたりに頭を下げる。すずさんは得意げに人差し指を立て、

「まあ、まかせときなさい。それじゃあ、急だけど今日から練習始める?実は今日、双七くんアルバイトの日でね、もともと美羽とふたりで練習する予定だったんだけど」

「そうなのですか?そうですね、少しでも早く取り掛かりたいですし、善は急げとも申します。さっそく参加させていただいてよろしいでしょうか?」

「オッケー。それじゃあ、生徒会終了後、わたし達のマンションに集合ね。道具はそろってるし、刀子はそのまま来てくれれば良いから。そうそう、双七くんには見つからないように。吃驚させてやりたいし。刀子もそこだけは気をつけてね」

「心得ました。私としても、事前に双七さんに知られるのは避けたいところですので。……ところでその双七さんなんですけれど、どうなさったのでしょう?まだ来られていないようですが」

 周囲を改めて見回しても、当然、彼の姿はない。クラスの用事などがあるにしても、少し遅すぎるような気がする。もちろん、そのおかげで皆さんに相談出来たわけですが。

「本当ですね。どうしたんでしょう」

 さくらちゃんも時計を見て首をかしげる。

 私たちの疑問に答えたのは、トーニャさんだった。

「ああ、如月くんなら、先ほど加藤先生に呼ばれてましたよ。生徒会に遅れるかもしれない、と伝言を預かってきました」

「そうなのですか。承知しました。それでは先に生徒会をはじめておきましょうか」

 と、そんな話をしていたちょうどその時、がらりと引き戸を開ける音が室内に響いた。

「すいませんーん。遅れましたー」

 そんな挨拶と共に生徒会室に入ってきたのは、双七さんその人だった。

 計ったかのようなタイミングの登場に、皆さん一斉に見つめてしまう。

 いきなり注目を浴びた双七さんはといえば、

「えっと、どうかしました?」

 と、少々困惑気味だ。

 すずさんが答える。

「特にどうした、ってことはないけどね。噂をすればというか、なんというか……」

「噂?」

「ああ、ごめん、なんでもないから。気にしない気にしない」

「?」

 双七さんが不思議そうな顔をしたまま席に着いたところで、今日の生徒会活動が始まった。

 

 

 

「如月くん、遅くまでご苦労様。もうあがっていいわよ」

「了解。それじゃ、お疲れ様でした」

 七海さんとそんなやり取りをして、バイト先である七海病院を出たのが先刻のこと。

 俺、如月双七は今、自宅のマンションの廊下を歩いていた。

 時はすでに夕食の時間帯。あたりには各家庭の食卓からもれて来るのであろう、良い匂いが漂っている。

 そんな空気を吸っていると、どうしても空っぽの胃が意識された。

 バイトが長引いたこともあり、すっかりお腹が減ってしまった。

 今日は、加藤教諭の手伝い、生徒会の活動、そして七海病院の清掃のバイトと、微妙に忙しかったからなぁ。

 周囲に漂う夕食の気配に心が躍る。

 今日のご飯はなんだろう?そんな小学生みたいなうきうきした気持ちを味わいながら、廊下を歩く。

 食事を作ってくれる刀子さんやさくらちゃんやトーニャにあらためて感謝だ。いつも感じていることではあるけれど、こんな日は特にそう感じてしまう。

 もちろん自炊には自炊の楽しさがある。けれど、今日のような場合はどうしても時間が足りないし――それに何より、自分で用意する場合には、今日はどんな夕食か楽しみだ、なんて気持ちは到底味わえない。

 この楽しい気分を味わえるだけでも感謝しなくちゃいけないぐらいなのに、家に帰り着いて出てくる夕食がどんな献立であったとしても、最高に美味しいものばかりなのだから、なおさらだ。

 学校で、バイトで、精一杯やるべきことをやって家に帰り、すずや、刀子さんや、時にはみんなとも食卓を囲む。

 暖かなご飯で空っぽになった胃を満たし、暖かな会話でくたくたになった心を癒す。

 これ以上の贅沢があるだろうか。

 本当に俺は幸せ者だ。

 暖かな気持ちに包まれながら部屋の鍵を開け、ドアノブに手をかける。

「ただいまー」

 ガッチャ……ガッ。

「……って、あれ?」

 ガッ、ガッ。

 楽しい夕飯への入り口であるはずのドアが、数センチ開けた所で止まってしまった。

 半開きのドアの隙間からは、金属製の鎖が見える。

「ドアチェーン?」

 そう、ドアが鎖錠によってロックされていたのだ。

 とはいえ、あわてることもない。

 鎖錠は内側からしかかけられない訳で、つまり今部屋にはすずがいるはず。

 そんなことを考えている間にも、案の定、部屋の奥からバタバタと慌ただしい足音が響いてくる。

「はいはーい、おまたせー」

 程なくすずが小走りで玄関に顔を出した。

「ただいま、すず」

 俺のいつもの帰りの挨拶に、すずはにっこりと、いつもの笑顔でいつもの挨拶。

「はい、双七くんおかえりなさい、そしていってらっしゃい」

「へっ?」

 なんだかいつもの挨拶の後ろに余計な挨拶がくっ付いてますよ?

 思わず間の抜けた返事をしてしまう俺に、すずが続けて言う。

「今入室禁止。そんなわけだから、しばらくどこか散歩でもしてきて」

「入室禁止?いったいどうしたんだ?」

 いきなりの締め出しに、首をかしげる。思い当たる理由としては……。

「あ、もしかしてまたあの八咫鴉の野郎が来てるとか?」

 だったら即、追い出さねば。

 だが、すずはあっさりと俺の言葉を否定した。

「ちがうわよ。どうもしてないし、八咫鴉も関係ないけど、とにかく入室禁止なの。なんだったら三時間ぐらい出かけてていいから」

「三時間!?……そう言われてもなぁ。外寒いし、おなか減ってるし、特に行くところもないんだけど」

「いいからいいから、ほら、さっさと出かける出かける。回れ右」

「そんな横暴な。いや、まあ、どうしてもっていうなら別にいいけど。あ、そうだ、ならせめて鞄を家に置いてから――」

「ああ、もう、そんなのわたしが預かってあげるから」

「ん?そう?なら頼もうかな……」

 ドア越しに鞄を渡そうと手を伸ばす。その瞬間、なにやら変な臭いが鼻をかすめた。

「……ん?なんだこのにおい?焦げ臭くて、でも、どこか甘いような……」

 廊下のよりも奥、部屋のほうから臭って来るみたいだ。

 臭いの正体を確かめようと一歩前に出てドアの隙間に近づく。

 すると、すずが慌ててドアの隙間を塞ぐ様に立ちふさがった。

「あ、ああー!だ、だいじょぶだいじょぶ、心配ないから!」

「いや、心配ないっていうけど、なんなんだ?この臭い」

「それは、その……ひみつ」

「秘密って……本当に大丈夫なのか?なんだか様子がおかしくないか?」

「だ、大丈夫だってば!」

「本当に?」

「本当に!」

「絶対に?」

「絶対に!」

「……なんか不安だなぁ」

「あー!もう、全く、双七くんは!いいから”三時間ほどその辺の公園でも走ってきなさい”はい、全速力!」

 すずがそう口にした途端、体中がそわそわし始め、足が俺の意思とは無関係に動き始める。

「あ、あれ?足が勝手に……あっ!?おい、すず、今言霊使ったな!?」

 俺の言葉にすずは少しうつむき伏目がちになり、

「……私も本当はこんな手は使いたくなかったんだけどね。目標を達成するために犠牲はつきものなのよ」

 などと呟いたかと思うと一転、

「――そんなわけで、双七くん、がんばっ」

 笑顔で手を振る。

「が、がんばってお前、それ全然気に病んでないだろ!うわ、っと、せ、せめて鞄を、あ、足が止まらな、ああ、もう、いったい何なんだよおおぉぉ……!」

 最後まで言い切ることすら出来ず、結局俺は、鞄を持ったままマンションを飛び出してしまった。

 あとはもう、走る。

 走る、走る。ただ走る。

 意思とは無関係に、気力とは反比例に、全ては両足の赴くままに、ただただ走る。

 くぎゅるるるぅ……と空っぽの胃が上げる抗議を聴きながら、寒空の下をひた走る。

 ううっ、なんだってこんなことに。

 そんな嘆きを否定するように、頭を振る。

 ……まぁ、走るのだって鍛錬になるし、お腹がすけばそれだけ夕飯が美味しくなる訳だし、うん、俺はやっぱり幸せだ。

 自分で考えてうんうんと頷く。

 それに場所が公園なのも幸いだ。なんせ、ここなら話し相手にも困らない。

 さっそくこの公園に古くからあるらしい電燈に人妖能力で糸を繋ぎ、話しかけてみる。

「どうも、こんばんわ」

『なんじゃ、若いの。こんな夜にひとりでジョギングなんぞしおって。さては訳ありか?苦労しとるのぅ』

 ……苦労なんてしてないやい、幸せ者だい。

 

 

 

 双七さんの声が玄関先から遠ざかっていって程なく。

「まったく、変なところで勘が鋭いんだから……。で、刀子、鍋は洗い終わった?」

 台所まで戻って来たすずさんが、私に向かって言った。

「あ、はい。今、終わりました」

 先ほどチョコレートを焦がしてしまった鍋の底を、すずさんに見せる。

「オッケー。じゃ、もう一回最初からね。美羽を家に送ったり片付けたりする時間を除いても、後二時間は大丈夫だから」

「あの、ですが、双七さんはよろしかったのでしょうか。お疲れのようでしたが……」

 おふたりの玄関でのやり取りはこちらまで聞こえてきていた。確かに今、彼にばれる訳には行かない。行かないのだが、さすがに心が痛む。

 私の言葉に、美羽ちゃんも

「ちょっと、かわいそうなのです」

 と頷く。

 すずさんは少しへそを曲げたように口をすぼめ、腕を組んだ。

「う、で、でも、納得してくれない双七くんのせいでもあるんだし、この場合やむなしっていうか、それに、ええっと……」

 そんな風に言葉を濁していたかと思うと、思いついたとばかりに指をピンと立て、

「そう、あれよ!夕飯前ランニング開運法!お腹が空けば空くだけ、ご飯がおいしいくいただけるから幸せっていう!」

「開運法、ですか?過分にして存じませんでしたが……」

 と私。

 隣の美羽ちゃんも怪訝そうな表情を浮かべている。

 だが、すずさんは、

「有名なのよ!ジョン何たら流とかいうやつ!で、双七くんの運もあがって、私たちもチョコ作りの練習が出来て、結果的には双七くんだっておいしいチョコレートを食べられるんだから、公園を走ってくるのは二重の意味で双七くんの為になるっていう見事な計画!開運法バンザイ」

 言って、うんうんと頷いている。

「理にかなっているような、誤魔化されている様な、その実、自分を誤魔化しているような……」

 私の呟きにも、すずさんは胸を張り、

「大丈夫、双七くんならきっと誤魔化されてくれる!もとい、解ってくれる!むしろ今頃ひとりで勝手にぽじてぃぶしんきんぐして納得してる可能性も無きにしも非ずっ!」

 やっぱり誤魔化しなのですね……。

 不意にすずさんは真面目な表情に戻って答えた。

「それにさ、わたしと刀子が双七くんのためにチョコ作ってるのは事実なんだし、時間もないんだから、ここは双七くんに我慢してもらうしかないじゃない。その代わり、その分、双七くんにおいしいチョコレートを作ってあげなきゃ。刀子だって、その為に努力してるんでしょ」

「それは――そうなのですが」

「だったら!双七くんの犠牲を無駄にしないためにも、刀子も頑張って美味しいチョコ作れるようにならないと!それこそ双七くんの幸せにつながってるんだから。そう、そのためには今、こうして迷っている時間なんてないはずよ!行動あるのみ!レッツクッキング!」

 今私がすべきことは双七さんの心配をすることではなく、チョコレート作りの練習をすること。

 ――そういわれると、そうなのかもしれない。

「……そう、ですね。そうなんだと思います。いえ、すずさんの仰る通りです。私が間違っておりました。危うく目先のことにとらわれ、すずさんと美羽ちゃんの協力や、双七さんの犠牲を無駄にするところでした!私、頑張ります!」

「そう、その意気よ、刀子。やっとわかってくれたのね!」

「はい、すずさん!」

 すずさんと、がしっと抱き合う。

 ああ、これこそ友情なのですね。仲良きことは美しき哉。友情って素晴らしいです、兄さま。

 そんな私たちを眺めていた美羽ちゃんが、ポツリと口を開く。

「……でも、なにも公園を走ってもらわなくても、双七さんには席をはずしてもらうだけで良かったような……」

 そう言われればそのとおりのような。

 だが美羽ちゃんの指摘は、

「美羽、世の中っていうのはね、ままならないものなのよ」

 というすずさんの一言によってまとめられてしまった。

 さて、とすずさんが一呼吸置いて続ける。

「それじゃ、時間もないんだし、再開再開。もう一度、生クリームを火にかけてあっためるところから。今度は焦がしちゃ駄目だからね」

「は、はい。……出来る限り、努力します」

 私が再び鍋に熱を入れようとした時、ボールを手にした美羽ちゃんが言った。

「あの、刀子先輩、すずさん、今度は湯せんでやってみてはどうでしょう?」

「そっか、それなら焦げる心配もないしね。美羽ってば冴えてる!刀子もそれでいい?」

「はい、よろしくお願い致します」

 そうこう話しながら、私たちはチョコレート製作作業を再開したのだった。

 

 

 

「うぅ、えらい目にあった……」

 疲労で重い手を持ち上げてドアノブを手にしてまわす。

 ドアは今度は鎖錠に引っかかることなく、滑らかに開いてくれた。

 手以上に重い足を浮かび上がらせ、玄関のたたきの部分に足を踏み入れて一言。

「た、ただいまぁ」

 三時間のマラソンの果てに、俺は今度こそ帰宅した。

「はい、おかえりなさい、双七くん。ご飯できてるわよ」

 何事もなかったかのように出迎えに来るすず。

「あ、ああ、すず、ただいま――って、そうじゃないだろ!なんだったんだよ、さっきのは。なんか焦げたような臭いしてたし。説明してくれるんだろうな」

 すずに詰め寄ろうとしたところ、部屋の奥から耳に馴染んだもうひとつの心地よい声が届いた。

「あ、ああああああ、あの、それはですね、双七さん。わ、私から説明させてくださいませ」

 そう言って玄関まで歩いてきたのは、神沢学園の先輩にして、同時に、贅沢にも俺にとってとても身近にある人、一乃谷刀子さんだ。さらさらとした長い黒髪に、均整の取れた体。驚くほどに綺麗で、そうでありながら同時に、可愛らしさ、親しみやすさを感じさせる顔立ち。毎日顔を合わせているというのに、未だにどきりとさせられてしまう。

「あ、刀子さん、いらっしゃい」

 とりあえず挨拶。それにしても刀子さん、なんだか慌ててるような。

 刀子さんはぺこりとお辞儀をし、挨拶を返してくれる。

「は、はい、お邪魔しております。……それでですね、あの、双七さんが先ほど帰っていらっしゃった時の話なんですけれど、あれはですね、お、お恥ずかしながら、私が里芋の煮っ転がしを煮詰めすぎてしまいまして、焦がしてしまったのです」

「煮っ転がしを?なんだ、そうだったんだ」

 うーん、さっき嗅いだ感じだと、煮っ転がしって感じはしなかったんだけどなぁ。もっと甘い物が焦げたような……。気のせいかな。

「でも、めずらしいね、刀子さんが焦がしちゃうなんて」

 そんな俺の言葉に

「お恥ずかしいばかりです」

 と刀子さんが俯く。

 あまりこのことに触れちゃ悪いかな。疑問も解けたんだし、別の話題にでも――。

 ――あれ?

 そう思っていた矢先、ふとあることに気が付いた。

「ということはさっき俺が帰ってきたとき、刀子さんも家にいたの?その割には声もしなかったような……」

「え!?ええっとですね、それは……」

 なにやらうろたえる刀子さん。だが、刀子さんが何かを答えるその前に、すずが大声で割って入って来た。

「あー、あれよ!あの時刀子は煮っ転がしの代わりに作るおかずの材料を買いに行ってくれてたの。ちなみに、さっきは入室禁止だったのは、焦げた煮っ転がしを双七くんに見られないようにするため。刀子が失敗を見られたくないって言ってたから、わたしが気を利かせたの!で、買い物から帰ってきた刀子に、双七くんは公園にランニングに行ったって、伝えたら、刀子が『それは申し訳ないことをした』と気に病んで現在に至る!以上!」

「なるほど。そういうことか」

 だから刀子さん、今も言いずらそうにしてたのか。

「そうそう、そういうことなのよ。ねえ、刀子?」

「は、はい。あの……結果的に私のせいで双七さんにご迷惑をおかけしてしまって、どうお詫びすればよいか……。申し訳ありません」

 と頭を下げる刀子先輩。

「お詫びだなんてそんな……。もともと刀子さんのせいじゃないんだから」

 俺を気遣うように見つめながら、刀子さんは言う。

「ですが、私がうっかりしていたせいで鍋も焦がしてしまって。……元はといえばそれが原因ですし。それに、お疲れだったのでは……」

 ここで疲れている様子を見せるわけには行かない。俺は胸を張って答えた。

「大丈夫。ぜんぜん疲れてない――とはさすがに言えないけど、最近、体がなまってたんで、いい鍛錬になりました」

 言って、笑ってみせる。けれど、

「とはいえ、ただ鍛えるのであれば、お夕飯の後でも良かったわけですし……。私が調理に失敗したばっかりに双七さんにご迷惑を……」

 しゅん、と、ますますうな垂れる刀子さん。

 ……どうも、今日の刀子さんはいつも以上に落ち込んでるなぁ。

 得意のはずの料理で失敗したのが、刀子さんにとってそれほどの悩みになってるんだろうか。

 失敗の結果、俺にまで迷惑をかけた、という気持ちが、自責の念に拍車をかけているのかもしれない。

 もしそうなら、俺がなんとかしなきゃ。

 自然とそう思えた。

 少しでも刀子さんの心の負担を軽くしてあげたい。

 その悩みを取り除いてあげたい。

 取り除くことが不可能なら、せめて一緒に抱えてあげたい。

 楽しいことも辛いことも、喜びも悩みも分かち合って生きたい。

 それがきっと刀子さんの恋人の――俺の、やるべき事で、それがきっと刀子さんと俺が幸せになるってことに繋がっていると思うから。

 だから、俺は思うままに口を開いた。

「少し位の失敗なんて気にしないで下さい。刀子さんが料理上手なこと、俺、十分知ってるし、誰にだって失敗や苦手なことの一つや二つあるんだし、それに――ええっと、その、なんていうか……」

 刀子さんにそう言いながら、改めて考える。

 最初のころは「どこか完璧で非の打ち所がないような人」という印象を刀子さんに持ったりしたものだけど、本当に、当時の俺を殴りたくなってくる。

 親しくなるにつれて少しずつ見せてくれるようになった、そして本当に恋人になってからというもの、度々見るようになった、いろいろな刀子さんの姿。それは、決して何でも完璧にこなす先輩ではなく、お茶目なところもあったり、弱々しいところもあったり、実は嫉妬深かったり、たまには失敗もしてしまったり、でもとても頑張り屋で、一途で、一生懸命で――だからこそ愛しくて。

「たまに見せてくれるうっかりなところとか、それでも頑張ってるところとか、刀子さんのそんなところもかわいいから」

「えっ?……――か、かかか、かわいいだなんて、そんな……そんなこと……」

 それまでの落ち込んだ表情から一転、刀子さんの白い頬に朱の色が差す。顔に手を当てて照れるそんな姿もまたかわいくて愛しくて、だから俺は断言する。

「そんなことあります。だって、俺はそんなところもまるごと全部含めて――」

 そう、ちょっとだけおっちょこちょいなところとか、ちょっとだけ子供っぽいところとか、ちょっとだけヤキモチ焼きだったり……というか、思ったよりもヤキモチ焼きだったり……というか、過剰なまでにヤキモチ焼きだったり……というよりも、過激なほどにヤキモチ焼きだったり、するところとか……まぁ、そんなところもあるけれど、そんなところも全部含めて……ヤキモチは、少しだけ抑えてくれると嬉しい気もしないでもないかなという思いも無きにしも非ずではあるけど……いやいや、でもやっぱり、そんなことも含めて。

「――刀子さんのことが、好きなんだから」

 刀子さんの頬がますます赤く染まる。

 そして、おそらく俺の顔も同じように、あるいはそれ以上に、真っ赤になっているに違いない。それくらいに顔が熱くほてっていた。

 熱を冷ますように、言葉を継ぐ。

「だ、だから、失敗しちゃったら失敗しちゃったで、遠慮なく言って欲しいっていうか……他にも苦手なこととかがあったら、遠慮なく相談して下さい。俺にも何か刀子さんが困ったとき手助けできることがあるかもしれないし、もし力になれることがあるなら、力になりたい、分かち合っていきたい、そう思うから。刀子さんと一緒なら、たとえそれがどんなことでも、きっと、楽しいと思うし、その……俺は……」

 俺は自分の気持ちを何とか言葉にしようと、口を動かし続ける。

「俺は、仮に刀子さんが何か失敗したとしても、その失敗も含めて、苦手なことがあったとしても、苦手なことも含めて、刀子さんのことを、もっと好きになりたいから」

「あっ……」

 刀子さんが、何か驚いたかのような表情で息を呑んだ。

 ややもすると、その目にはうっすら涙が浮かんできて――。

「あ、あれ?俺、何かへんなこと言いました?ご、ごめん!傷つけるつもりとかはなかったんだけど、えっと……」

 俺の言葉に、しかし、刀子さんは首を振る。

「い、いえ、違うんです。ごめんなさい。そうじゃなくて――嬉しくて。双七さんがそのように思ってくれているのが嬉しかったんです。……それに、私、目か鱗が落ちた様で」

 そう言って笑顔を浮かべてくれる。

 その顔には晴れ晴れとした気持ちが浮かび上がっていた。

 刀子さんがどうしてそれほどまでに悩み、落ち込んでいたのか、わからないこともある。けれど、刀子さんの笑顔を見て、ただひとつだけ、刀子さんの悩みが解決したのだということ、それだけは俺にも理解できた。

 よかった。心の底からそう思う。

 やっぱり刀子さんには笑顔でいて欲しい。俺自身がそう望んでいるのはもちろん、それは会長との約束でもあるのだから。

「……あ、あの、双七さん……ありがとうございます」

 刀子さんが一歩こちらに歩み寄ってくれる。

 それにあわせて、俺も歩を進める

 どちらともなく手を伸ばす。

 互いの距離がゆっくりと近づき、そして触れ合……。

「うー!あーもう!ストップ!ストップ!まったく、ほっとくとすぐこれなんだから、このバカップルは!」

 触れ合う前に、間に入ってきたすずの手によって、思い切り引き離された。

「う、うわっ、と。な、いきなりなにするんだよ、すず」

「だまらっしゃい!はい、取り合えずふたりともそこに座る!正座!」

 すずは言いながら、ずびしっ、と指を床に差す。

『え、ええっ!』

 ふたりして驚きの声を上げるも、

「とっとと座る!」

 と言うすずの剣幕に気圧され、結局正座してしまった。

 すずは正座した俺たちを見ても満足げな顔ひとつせず、ぷりぷりとしたまま続ける。

「もう!今日の生徒会でも話題に出てたけど、最近ふたりともいちゃつき過ぎ!それも誰がいようと所かまわずの不埒な悪行三昧!少しは自重できないのっ!」

「そんなこと言われても、その、俺と刀子さんは恋人同士なわけだし、ちょっとくらい……」

 ぺしっ。

 抗議を却下するように、俺の頭にすずのちょっぷ。

「だから時と場合を考えなさいって言ってんのよ!姉として恥ずかしいったらありゃしないんだから!せめて人および狐の見てないところでやりなさい!」

 ……むぅ、そう言われると返す言葉もない。

 思い返せば、最近、少しいちゃつき過ぎだったような気もしないでもないような。

 そんな風に反省していると、すずはひとりで、

「あ、見てないところでやってると思ったら、それはそれで腹が立ってきたじゃない!」

 と更に膨れ、

「どうしてくれるのよ、この、この、この!」

 ぺしぺしぺしと、ちょっぷちょっぷちょっぷ。

 どうしてくれるもなにも、いったいどうしろと。

 横目で窓をのぞくと、外は当然真っ暗。

 くぎゅるるるるるるるるるぅ……というお腹の抗議とすずの抗議を受けながら、夜は益々深けていくのだった。

 ……それでもこうしてみんなと団欒できるんだから、俺は幸せ者だ。

 正座しているにもかかわらず、隣の刀子さんはすっきりしたような、どことなく嬉しそうな顔をしてるし、よくよく考えれば有言実行というか、さっそくふたりで困難を分かち合っているわけで。うん。これはある意味、幸せなのだ。うん。おそらく。たぶん。…………ですよね、会長?

 夜空に向かって心の声で呼びかける。

 星の瞬きの狭間に浮かび上がった会長は、なにやら苦々しい表情で、

『あー、その、なんだ、どのような状況を幸せと感じるかは人それぞれであり、要は気の持ちようだからな。だから、その…………双七くん、頑張れ』

 と語っていた。

 ……うう、幸せだよう。

 

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