『あやかしびと』のSS「姉川さくらルート」妄想追加ルートです。
『あやかしびと』及び『あやかしびと―幻妖異聞録―』のネタばれを含みます。ご注意ください。
さくらちゃんと二人、下見の時と同じ道を歩く。
昨日よりも早い時間帯だけあって、下校中の生徒たちが視界に入った。この時間に帰路に着いているということは、部活動などを行っていない生徒だろう。楽しげに下校しているその姿には、授業が終った小さな開放感が溢れている。
その様子を見ていると、生徒会活動で見回り中にもかかわらず、こちらまでゆったりとした気持ちになってくる。
見回りの道すがらに、さくらちゃんが言った。
「それでですね、子犬さんのことなんですけど」
「うん。どうだった?」
「はい……今のところ、飼いたいっていう人は見つかりませんでした。やっぱり、急なことですから」
「それもそっか。いきなり、子犬を飼いませんか、って言ったって、すぐには返事できないよなぁ」
さくらちゃんの言葉に肯く。
動物を飼うということは、その命を預かるということ、その命に責任を持つということだ。簡単に請け負えることじゃない。
けど、だからといってこのままというわけにもいかないしなぁ。
考えながら歩いているうちに、昨日立ち寄ったホームセンターが視界に入った。
同時に、昨日の子犬の様子が頭に浮かぶ。
どうせ見回りの途中に立ち寄るんだし、何か食べるものでも買って行ってあげようかな。
「さくらちゃん、あのさ、ちょっと寄ってもいいかな」
ホームセンターに目を向ける。
さくらちゃんは俺の視線の先を辿ると、皆まで言わずとも得心した様子で、
「あ、そのですね……」
少し照れくさそうに、鞄の中を探る。
――鞄?
そう言えば、さくらちゃんは鞄を手にしていた。見回りが終ればいったん生徒会室に戻るわけで、見回りに鞄を持ってくる必要はないはずなのに。
「実は昨日、近所のお店で買っちゃったんです、これ」
そう言ってさくらちゃんが鞄の中から取り出したのは、ドックフードと、ペット用のプラスティック製の容器だった。
どうしてそれを買ったのかなんて、聞くまでもない。
「えっと、なんて言って良いか、気を使わせちゃったみたいで。あ、そうだ、お金は……」
俺の言葉を遮る様に、さくらちゃんがぱたぱたと両手を振る。
「いえいえ、お気になさらないで下さい。そんなに高いものじゃありませんし、わたしも好きでやってることですから」
「でも、元々俺が勝手にしたことなわけだし……」
飼い主探しを一緒にしてもらっているだけでなく、食べ物のお金まで出してもらっては、さすがにさくらちゃんに迷惑をかけすぎなのではないだろうか。
言いよどむ俺を見て、さくらちゃんは、思いついた、というように指を立てた。
「それじゃあ、こうしませんか?昨日が双七さんだったので、今日の分はわたしが出して、明日からは半分ずつということで、いかがでしょう?」
――半分ずつか。
さくらちゃんが続けて言う。
「わたしだって、あの子犬さんを助けてあげたいから、だから、二人で出しませんか?」
結局それが、一番穏当な案なのかもしれない。さくらちゃんにドックフード代を任せるのはもってのほかだし、逆に俺が出すといっても、さくらちゃんが納得しないだろう。
となると、自ずから、二人で負担するということになる。
それに俺の場合、正直に言えば、そのほうが助かるのも事実なのだ。なんと言っても俺たちは今、おっちゃんに多額の借金をしている状態なんだから。
……さくらちゃんのことだから、そのあたりのことも考慮しているのかもしれない。
そう考えると、ますますさくらちゃんには頭が上がらないなぁ。
「うん、それじゃあ、そうしよっか。ありがとう、さくらちゃん」
「そんな、お礼なんていいですよぅ。あ、それでですね、明日の分のドックフードなんですけど、あのホームセンターより、家の近所のお店のほうが値段が断然お安いので、もしよければ購入はわたしに任せてもらえませんか?」
「そうなんだ。うん、わかった。それじゃ、お願い」
「はいっ!お任せくださいっ!」
そう言ってさくらちゃんは、嬉しそうに肯いた。
「おっ、如月じゃねーか」
さくらちゃんと話しながら見回りを続けていると、不意に背から話し掛けられた。
振り向けば下校中の生徒達の中にクラスメイトの顔があった。軽く手を上げて歩いてくる。
「こんなところで珍しいな。おまえん家ってこっちだったっけ?」
「あ、いや、そうじゃないんだ。今は生徒会の活動中で……」
見回りのことは、一応掲示板などで告知はされているけれど、まだ始まったばかり。学園新聞への掲載も明日以降になるってことだったし、浸透にはもう少し時間がかかるのだろう。
首を傾げるクラスメイトに、事情を説明する。
「あー、そういや、ホームルームでもそんなこと言ってたっけか。不審者が出るとか、ひとりで帰るな、とか」
「そうそう。あ、そういえば、ひとり?出来れば複数人で下校してくれると助かるんだけど」
いくら見回りしているといっても、すべてをカバーできるわけではないし、何かあってからでは遅い。少し遠慮がちに、注意してみる。
彼は俺の言葉に気を悪くもせずに、気安く答えてくれた。
「いや、俺んちこのすぐ近くなんだよ。で、さっきそこでダチと別れてきたところ」
「ああ、そっか。ごめん」
いくら安全のためとはいえ、下校にまで干渉されるのは、あまり気分のいいことではないと思う。生徒会の通達を守ってくれていたのなら、尚更だ。
けれど彼は
「いや、別に気にしてねぇよ。俺は生徒会は良くやってくれてると思ってるし。それにしても、おまえも大変な」
と、からからと笑い飛ばしてくれた。
良くやってくれている。その言葉に、つい頬が緩んでしまう。日々、会長を始め、生徒会のみんなが一生懸命活動していることを知っているからこそ、そんな言葉が嬉しい。
まぁ、俺はといえば、生徒会に入ったばかりで、未だにろくに役に立ってはいないわけだけれど、そこはこれから頑張るという事で。
隣に目を向ければ、黙って話を聞いていたさくらちゃんも微笑んでいる。嬉しかったのは、さくらちゃんも同じな様だった。
自然にお互い微笑みあう。暖かな気持ちが胸に満たされた。
すると、不意にクラスメイトは声色を変えて、
「……大変な、って思ったんだがな。なんか、大変そうなんだか楽しそうなんだか、判断に困る状況のような気がしてきたのは、俺の気のせいか?」
俺とさくらちゃんを交互に見る。
「へっ?」
それって一体……。
こんどはこっちが首を傾げたところ、
「ったく、人畜無害、無農薬150パーセントみたいな顔しやがって!案外手が早いのな、如月って」
ああ、なんだ、そういうことか――って、おい!
「そ、そんなんじゃないって!これは見回りで、二人一組で回ることになって……」
「あ、あのっ、そうなんです、生徒会の方針で、わたしは生徒会の後輩で、ですから、そういんじゃなくて……」
二人で慌てて否定する。
「かぁー、息ぴったりでなんつー説得力のない否定の仕方だよ!わざとやってんじゃねーだろな!」
「だ、だから違うんだって」
なおも説明する俺に、彼は、わかった、わかった、そういうことにしといてやるよ、と笑う。
なにをどうわかってるのか、非常に疑問だ。
「――おっと、今日はバイトがあるんだった。俺、そろそろ行くわ。じゃ、見回り頑張れよ」
「あ、ああ。それじゃ、気をつけて」
じゃあな、と彼は帰っていった。
再び二人になってから、さくらちゃんに話しかける。
「えっと、ご、ごめん、さくらちゃん。あいつ、いきなり変なこと言ったりして」
「い、いえ、気にしてませんから、わたし。――た、ただ、ですね。やっぱりその、わたしたち、えとっ、……そ、そういう風に見えたり、とか、するんでしょうか」
もじもじと手を合わせながら、呟くさくらちゃん。
「そっ、それは――」
思わず口ごもる。
そういう風に見えるか、か。
年頃の男女が談笑しながら歩いていれば、「そういう風に」見られないこともない……のかな?
いや、でも、昨日のトーニャみたいに大騒ぎしたならともかく、今時ただ一緒に歩いてるだけで変な噂になってしまう、なんてこともないんじゃなかろうか。
不安にさせまいと、さくらちゃんに言う。
「――あ、いや、だ、大丈夫!生徒会が見回りしてる事だって、すぐに広まるはずだし、変に誤解されたりとかはないと思うから。安心していいと思うよ、うん」
生徒会活動なんだから、大丈夫、……なはず。自分を納得させるように、もう一度呟いた。
「そう、ですか……い、いえ!そうですよね!そうに決まっちゃってますよね!」
さくらちゃんが鳩の様に首を動かす。こくこくこくこくと。
「そ、そうそう」
俺もそれにあわせて相槌を打つ。
で、二人でしきりに肯きあった後、そろって沈黙。
「…………」
「…………」
無言で見回りコースを歩く。さっきまでの和やかな雰囲気が嘘のようだ。
といっても、居心地が悪いというわけでもなくて、緊張するというか、そわそわするというか。
気まずいようで、こそばゆい、微妙な雰囲気の中に二人だけで閉じ込められてしまったような、妙な錯覚。
変に指摘されてしまったせいで、どうしてもさくらちゃんを意識してしまう。
先ほどまで自分たちも一部であったはずの、下校中の生徒の穏やかな談笑が、薄い壁で隔てられた向こうの世界の出来事ように感じられる。
その中にあって、さくらちゃんの一挙手一投足だけが、すぐ近くにあった。
昨日のように、胸が奇妙に騒ぎ立てられて、なんだかドキドキしてくる。
こんな風に押し黙ってしまって、さくらちゃんに迷惑ではないだろうか。
横目で視線を移してみる。すると、同じようにこちらを見つめていたさくらちゃんの視線とぶつかってしまった。
「うぁ」
「はうっ」
瞬時に顔をそらし合う。
「………………」
「………………」
再び、沈黙。
気恥ずかしくて、さくらちゃんの顔をまともに見ることが出来ない。
互いに相手を視界に入れないように、不自然なほどまっすぐ前を見て歩き続ける。
そうすればするほど、隣に入る相手を、視覚以外で意識してしまった。
歩幅の違いのせいか、同じペースで歩いているのに少しずれて鳴る、さくらちゃんと俺の足音。隣に感じる、確かな気配。
自分の心臓の脈打つ音が、耳に木霊する。決して不快ではないのだけれど、軽く締め付けられるような、胸の高鳴り。
……見回りだというのに、こんなじゃいけないよな。
学校のために出来ることをしようと、昨日決意したばかりじゃないか。頭を切り替える。
心機一転、気を紛らわそうと空に目を向け、
「え、えーっと、今日も一日良い天気で――」
と、思いついたことをとにかく口にしようとしたところ、
「――って、あれ?なんだか薄暗くなってきたような……」
予想外のことに驚いた。
昨日よりも速い時間帯であるにもかかわらず、周囲は灰色に薄暗い。
秋が段々と深まり、最近は日の傾く時間も早くなってはいるけれど、それでもまだ陽の落ちる時間帯ではない。
空には灰色の雲が薄く広がり、陽を遮っている。
俺の言葉に、さくらちゃんが同じように視線を空に向けた。
「本当……曇ってきちゃってますね。朝の天気予報では、降水確率はそんなに高くなかったんですけど……」
そう言っている間にも、ぽつりぽつりと灰色の雲から溶け出すように、雨粒が滴り始める。
「うわっ、困ったな。折り畳み傘は鞄の中だし」
その鞄はといえば、生徒会室に置いてきてしまっていた。
この周辺はあまり開発されていない住宅街で、近場にコンビニも見なかった。とすると、傘を売ってそうなところといえば、さっきのホームセンターかな。でも、今から買いに戻っても、結局、傘を買うまでに濡れてしまいそうだ。
それに、子犬のことも気になる。あの場所はビルの谷間だったから、ちょっとやそっとの雨で濡れることはないと思うけど。
今のところ雨脚はそんなに激しくないから、少しくらいなら傘を差さなくても平気だし、ならいっそ、このまま子犬のところまで見回りに行こうか。けれどその場合、俺はともかく、さくらちゃんはどうしよう。さくらちゃんに一緒に濡れてくれと言うのも悪いし……。
頬に落ちてくる雫を拭いつつ考えていると、さくらちゃんが再び鞄の中を探り始めた。
「あ、あの、傘、ありますっ」
「えっ?」
「で、ですから、あるんです、傘!ひとつだけ、ですけど。えっと、確かここに……あったっ!」
さくらちゃんは言うと同時に、鞄の中から折り畳み傘を取り出した。収納袋を外して棒を伸ばし、プッシュ式のボタンを押すと、ぽんっと傘が広がる。さくら色を基調にしたチェックの柄で、落ち着いていながら女の子らしい傘だった。
そっか。さくらちゃん、ドックフードを持ってくるために鞄も持ってきてたから。なんにしても、これで万事解決だ。
「ああ、よかった。それじゃ、さくらちゃんだけでも差しちゃってよ」
「はい、じゃあわたしだけでも――って、そ、そうじゃなくてですねっ」
さくらちゃんはニコニコと肯きかけて、びっくりした顔で俺の言葉を否定した。
「えっ?そうじゃないって?」
「で、ですからっ、わたしだけ傘を差すなんてできませんし、でも、折角あるんだから差さないのも変ですし、ほ、ほら、わたしと双七さんって、そんなに背の高さも変わりませんし、だから、えっと……」
「?」
「あ、雨に濡れて風邪を引いたりしたら見回りできませんし、非常事態ですし、ですから、えっと、ええっと――」
どうにも要領を得ない。
取りあえず落ち着いて、と声をかけようとして、
「――え、えいっ」
さくらちゃんの掛け声にさえぎられた。
同時に、俺の頭の上に傘を広げ、俺の隣へと潜り込んで来るさくらちゃん。
へっ……?
突然のことに、頭が回らない。
さくらちゃんの真っ赤な顔が、いつもよりかなり近くにあって、耳にまで届くさくらちゃんの息遣いが頭を支配して、思考は真っ白で。
い、いや、慌てちゃ駄目だ、如何なる時にも、頭は冷静に。まずは落ち着いて現状を分析しなくては。
そんなわけで、分析開始。
すぐ隣には、さくらちゃんがいて、いや、さっきも隣に居たわけだけれど、今度はさっきよりもずっと至近距離というか、それこそ手と手がふれあいそうな距離に、さくらちゃんが居るわけで、なんだか女の子特有の甘い香りまで鼻腔にかすかに感じられるような、って、それは今どうでも良くて、なんでそんな事態になっているかといえば、雨が降リ初めて、さくらちゃんが俺に傘を差し出して、ふたりで傘に入っているからな訳で、ひとつの傘に、男女が二人な訳だ。
結論。
これは、子供のころ漫画などで見た非効率極まりない必殺技の数々の一種、いわゆるひとつの相合い傘という奴ではないでしょうか?
「さ、さささ、さくらちゃん!?」
自分でも情けないくらいに取り乱してしまった。
「だ、駄目、ですか?」
傘の影からこちらを窺うさくらちゃん。俺より少し背が低いため、ちょっと上目遣いになっている。そのとまとの様に赤らんだ頬と、濡れた瞳に、吸い込まれそうな錯覚。
「え、いや、駄目じゃ、ない、けど……」
さっきから鳴りっぱなしの自分の心臓の音に掻き消されそうな声で答える。
「そ、それじゃあ……」
と、さくらちゃんは眼を輝かせ――って、流されてどうする。改めて、さくらちゃんに言う。
「でも、やっぱりほら、人に見られたりしたら、さっきみたいに変な誤解を生みかねないし。そんなことになったら、さくらちゃんに申し訳ないし」
厚意はありがたいんだけど、これが原因でさくらちゃんに迷惑をかけてしまっても悪いし。
さくらちゃんは、はっと驚いたような表情を浮かべた。先ほどのことを思い出したのかも知れない。
「やっぱり、わたしなんて、ご迷惑、でしょうか」
言いながら俯いてしまう。
「い、いや、そんなことは。むしろ俺のほうが迷惑をかけてしまいそうなわけで」
俺の危惧を理解したのか、さくらちゃんが続ける。
「で、でしたら!事情が事情ですし、わたしは気にしませんし、だ、大丈夫ですから」
「いや、でも」
渋る俺になおも、
「大丈夫ですからっ」
と、食い下がる。
「えっと、その」
「だ、大丈夫ですからぁ」
なんだか逆に悪いことをしている気分になってきた。
「じゃ、じゃあ、よろしく、お願い、します」
結局、さくらちゃんの提案に肯く。
「は、はいっ!お願いされましてありがとうございましたっ!」
さくらちゃんは慌てつつ、改めて傘を持ち上げた。
いや、お礼を言うのは俺の方なんだけど。
それはともかく、これからの予定を話し合って、再び歩き始める。
さくらちゃんの歩幅に合わせようとするけれど、緊張して、一歩一歩がギクシャクとしてしまった。子犬の様子を見て、ご飯を上げて、見回りの帰り途中にホームセンターに寄って傘を買う。言ってしまえばそれだけなんだけれど、なんだか途方もなく長い道程のように感じられる。
もう秋だっていうのに、体が熱くてしょうがない。
そう言えば、さくらちゃんも、頬が更に赤らんでいるような。
やっぱり、さくらちゃんも恥ずかしいんだろうな。そこを耐えて、傘に入れてくれているのだ。そう思うと、ますますさくらちゃんに申し訳ない。
けど、歓迎会の時といい、エプロンの時といい、さくらちゃんに迫られるとどうしても断れないんだよなぁ。そもそもそのさくらちゃんのお願いが俺たちのためのものなのだから、感謝こそすれ、無理に断る理由がないわけで。さくらちゃんに色々と負担をかけてしまうと解かっていながら、俺がさくらちゃんの申し出を拒否できないのも、無理からぬことなのかもしれない――って、それは単なる言い訳か。
なんだかんだで、さくらちゃんの厚意が嬉しいのは事実。俺がそんなさくらちゃんの厚意に甘えているのも事実なのだ。
ならせめて、せめてさくらちゃんの負担にならないよう努力しよう。
そうと決めれば即実行だ。
「そうだ。さくらちゃん、傘は俺が持つよ」
早速さくらちゃんに申し出る。
「えっ、よろしいんですか?」
「もちろん。俺のほうが背が少し高いからさ、さくらちゃんが傘持ってるの大変だろうし。よかったら持たせてよ」
「そう、ですね。それではお願いします」
傘を受け取る。
さて、さくらちゃんの体が傘の影に覆われるように傘を傾けてっと。
サイズの小さい折り畳み傘だから、雨を防げる面積はどうしても限られている。なら可能な限りさくらちゃんが濡れないようにしないと。
そう思ったのだが、俺の様子に気づいて、さくらちゃんはすぐに口を尖らせた。
「そ、双七さん、駄目ですよぅ。それですと、双七さんが傘に入ってる意味がないじゃないですかぁ」
「えっ?そんなことないって。結構雨粒防げてるし、俺はこれで十分だから」
実際、雨脚も小降りのままだし、顔が濡れないだけでも十分ありがたいのだ。
「でも……」
うつむき加減で呟くさくらちゃん。そのまま何かを考え込んでいる模様。どうやら納得してくれてはないっぽい。ううむ。
でも、やっぱりこの傘の大きさだったら、どちらかが多少濡れるのは覚悟しなきゃならないと思うし、それなら当然濡れるのは俺でなければならないと思う。これは譲れない。
「な、ならっ!」
さくらちゃんが、急に顔を上げて大声を出した。かと思うと、打って変わって小さな声で続ける。
「なら、ですね。えっと、こ、こういう場合はですね、傘が小さいのが問題なわけですし、あ、雨から防ぐ面積が小さくなれば問題ない訳ですから、えっと、そういうことで、そのっ――」
何がそういうことなのか解からずに、さくらちゃんの言葉の意味を理解しようとしていたのもつかの間。
「――し、失礼しますっ!」
そのひと言と共に、さくらちゃんの体が更に近づいて来て、手と手の当たる位置になったかと思うと、さらにそこからもう一歩ずったりするものだから、体と体まで微かに重なってしまって、肩にはさくらちゃんの温かな吐息が感じられる上、脇腹の辺りにはなんというか、形容しがたい柔らかくも弾力性に富んだなにものかが当たったり離れたりしてるんですけど?
「さ、さささささ、さくらちゃん!!?」
先ほど以上に、どもってしまった。
「き、気にしませんからっ!」
俺が何かを言う前に、さくらちゃんは断言する。
き、気にしないって言われても。
「い、いや、さくらちゃんが気にしなくても周りが気にするというか、周りが気にしなくても俺が気にするというか、いや、俺のことはどうでもいいんだけど、さくらちゃんは気にしないと駄目な気がしないでもないような気にしないで欲しいような気もしなくもないようなっ!」
自分で言ってることが意味不明だった。
「こ、こうしてれば二人ともそんなに濡れませんし、帰りにホームセンターに寄るまでのことですから、そんなに見られることもないと思いますし、大丈夫ですから」
「それはそうなのかもしれないけど、これは別の意味で色々とマズい気が」
「そ、そんなことないですっ、大丈夫ですっ、ばっちりですっ、パーフェクトですっ!」
さくらちゃんは、ぐっと握りこぶしを作る。
「パ、パーフェクトか。う、うん。わかった」
なにがパーフェクトなのかわからないけれど、なんとなく納得してしまった。
そんなわけで、そのまま二人で歩く。
けれど、あまりに近くに並んでいるものだから、何かの拍子に歩調が合わないだけで、脇や手に非常に弾力性に富んだ例のものがぷよんと触れてしまうわけで。
「ご、ごめんっ」
「い、いいんですっ。わたしから言い出したことですし、平気ですからっ」
さくらちゃんは耳まで赤く染め、あわあわと慌てながらも、そう言ってくれる。
でも、そこまでさくらちゃんに甘えて、本当にいいんだろうか?
以前、クラスの男子にいやらしい目で見られたり、胸を触られたりして、凄く悩んでいたと、さくらちゃんは言っていた。思い出したくもないであろうその過去を、教えてくれて、辛い過去しか持っていないと卑屈になっていた俺の目を、覚ましてくれた。
だからこそ、さくらちゃんの過去を知っているからこそ、もう、さくらちゃんに辛い思いをさせてはいけない。そんな気がして、
「さくらちゃん、やっぱり止めておいたほうが……」
さくらちゃんに提案する。けれど、さくらちゃんは、
「い、いえ、双七さんにそういう気がないことはわかってますし、非常事態ですし、それに――」
少し言い難そうに一度言葉を切って、そして、小さな声で、でも顔を上げて、そう続けた。
「それに、わたしが、こう、したいから」
その言葉で、すぐに自分の過ちに気づいた。
そっか。俺は、さくらちゃんに辛い思いをさせてはいけない、なんて言いながら、さくらちゃんの気持ちすら理解してなかったんだ。
さくらちゃんだって恥ずかしいだろうに、自分がしたいからしている、とまで言ってくれているのだ。きっと、俺の為を思って。なのに俺は、ひとりで恥ずかしがってばかりで。そのせいで、余計にさくらちゃんを恥ずかしい目に遭わせていた。なんて愚かなのだろう。
「あのっ、ご、ご迷惑でしたら、仰ってください。わたし、止めますから……」
今もさくらちゃんに、そんなことまで言わせてしまっている。迷惑だなんて、そんなわけないのに。
さくらちゃんにそこまで言わせてしまっている原因も、俺の態度にあるのではないか。
俺はさくらちゃんに色々としてもらってばっかりで。厚意に甘えて、受け取ってばかりで、自分の気持ちを示していなくて。
それは凄く失礼なことなのではないか。
以前さくらちゃんにエプロンをもらったときのことを思い出す。
『ほら、双七くん、もう買っちゃってるんだし、素直にもらっときなさい。もらわないと逆に失礼でしょ』
というすずの言葉。
まったく。こればっかりはすずの言うとおりだ。
情けなさに自分を殴ってやりたくなる。けれど、今はそんなことしている場合じゃない。
俺は素直にならなくちゃいけない。さくらちゃんにしてもらうのではなく、俺は俺の言葉で、俺の希望を伝えなくてはならない。
そして、俺の答えなんて決まっている。
「いや、さくらちゃんさえよければ、俺も傘に入っていたいから。だから、改めてお願いするよ。さくらちゃんの傘に入れて欲しい。いいかな」
「あ――は、はいっ!」
さくらちゃんは、満開の花が咲いたかのような笑顔で肯いてくれた。
小雨の降る中を、再び二人で、歩調を合わせつつ歩く。
上手くいく時もあれば、微妙に距離が離れすぎて濡れてしまうことも、逆に近くなりすぎて互いの身体に触れてしまい、ドギマギすることもあった。
そもそも折り畳み傘にふたり入ることに無理があって、どうしても肩が濡れてしまった。
けれど、そのもどかしさが、今度はなぜか、楽しかった。
未だに心臓の鼓動は止まらない。けれど、それはさっきまでの様な極度の緊張によるものではなく、どこか快活な調子を刻んでいるように、俺には思えた。