姉川さくらルート8 飼い主を探して

 『あやかしびと』のSS「姉川さくらルート」妄想追加ルートです。

『あやかしびと』及び『あやかしびと―幻妖異聞録―』のネタばれを含みます。ご注意ください。

 

 そんなわけで、あの子犬はどうしたものだろう、と頭を悩ませつつマンションに辿り着いたわけなんだけれど、これまたどうしたものだろう。

 廊下を歩く俺を待っていたのは、頭を抱えたくなるような光景だった。

 ピンポン、ピンポン、ピンポーン。

 響き渡る電子音。

 トーニャが俺たちの部屋の前で、呼び鈴を押していた。そういえば、今日はトーニャが夕食を作りに来てくれる日だったっけ。

 さっそく、

「トー……」

 と声をかけようとして、

 ピンポン、ピンポン、ピンポーン、ピポン、ピポン、ピポピポポーン!

 前言訂正。トーニャが俺たちの部屋の前で、呼び鈴を連打していた。

 ピポピポン、ピポピポピポピポ、ピピピピピピピピピピピポーン!

 ……あらためて、訂正。

 トーニャが怒りの形相で、秘孔でも突くが如く、我が家の呼び鈴を猛連打していた。えっと、どこかの神拳の伝承者でも目指していらっしゃるのですか?

 おかしいな。すずはとっくに帰ってるはずなのに。

 その疑問が頭によぎったのもつかの間、チャイムをさらに鳴らしつつ、トーニャが言う。

「いい加減開けなさいと言ってるでしょう、この引き篭もり狐っ。開けないと夕食作りませんよ」

 すると、ドア越しにすずの声が返ってきた。

「ふん、なにいってんのよ、あんたがあの狸娘である証拠なんてどこにもないでしょ」

 証拠?どういうことだろう。ドアの前にいるのは、どこからどう見てもトーニャなんだけど。

「証拠も何も、ドアスコープから外を覗けばわかるじゃないですか」

「最近はいろいろ物騒だって言うからねぇ。カメラとか使ってドア越しに嘘の映像を見せたりとか出来るかもしれないじゃない?」

 言葉の内容とは裏腹に、すずのその口調には愉快さが滲んでいるような。

「そんなハイテク機器持ってるような人間なら、こんなところで突っ立ってないでさっさとピッキングしますよ」

 そりゃそうだ。

「ふふん、そんなこといって開けさせようったって、そうはいかないんだからね!わたしは狸の戯言に化かされたりしないんだから。開けて欲しかったら――そうね、三遍回ってコンって鳴きなさい!いや、狸だから……ぽんぽこぽん?」

 どんどんと調子に乗るすず。

 やり取りを聞いていて、状況は大方理解できた。つまり、すずがドアを開けずに、トーニャをからかってると。さっき、生徒会室ですずが企んでたのはこれか。……なんというか、いろんな意味で溜息すら枯れ果てそうだ。

 とはいえ、折角来てくれているトーニャにこれでは申し訳ないし、何とかしないと。

 そう考える間にも、二人は言い争いを続ける。

「いい加減、人を狸呼ばわりするのは止めてもらえませんか。第一、立てこもっているところにやって来て、扉を開けさせようとするのは、狸ではなく狼と、昔から相場が決まってます」

「ふふん、ならわたしは可愛い子羊ってとこね」

「寝言は寝て言えって諺を知らないんですか?すずさんは精々、藁小屋立てては吹き飛ばされる豚狐がお似合いですよ」

「ぶ、ぶぶぶ、豚狐えぇ!?なによ、そのよくわからない生き物は!まるまるっと不細工ながらにどこが愛らしげで憎々しからぬ瞳をしてそうな……あれ?ちょっとかわいい?」

 どんな想像したんだ、どんな。

 あと、どうでもいいがトーニャ、「寝言は寝て言え」は諺じゃないと思うぞ、たぶん。

「かわいいだなんてとんでもない。むしろ年がら年中ごろごろしているくせに、口だけはピキーピキー五月蝿くてたまったもんじゃありませんよ。例えばほら、すぐドア越しにいる、ものぐさで食っちゃ寝のとか特に」

「だ、誰が食っちゃ寝よ!」

「違うとでも?今日、帰宅からこれまでの間に、掃除なり、洗濯なり、料理なり、なにかひとつでも有用なことしましたか?」

「うっ」

 いや、だから、たまにはやろうよ家事、自主的にさ。手伝ってくれっていつも言ってるんだから。

 それにしても、どうして顔をあわせるたびにこうなのかな、このふたりは。いや、今は顔をあわせてないけど。しょっちゅう間に挟まれる俺の身にもなって欲しいと思う。

 ……でも、そう思う一方で、そんなふたりのやり取りが嬉しくもあった。

 すずがもし本当にトーニャを追い返したいのなら、言霊を使えばいいわけで。

 トーニャだって、料理はあくまで善意でしてくれていることなのだから、すずが部屋に上げないと言うのなら、帰ればいいわけで。

 なのに二人は、今もドア越しに互いの文句を言い合っている。互いの言葉をぶつけ合っている。……喜んでいいのか呆れていいのか微妙な心境だなぁ。いや、やっぱり喜ばしいに決まってるんだけど。

 だが、それはそれとして、喜んでばかりもいられない。このままでは近所迷惑もいいとこだ。

 と、すずが絞るような声を出す。

「……し、したわよ、家事」

 え?

 き、聞き間違えじゃないよな。軽く身体を乗り出す。

「ほう、何を?」

 と言うトーニャの問いに、すずの答えは、

「トイレの――掃除?」

 おおっ!

「具体的には?」

「そ、それはえっと、……み、水、流したり、とか」

 それはトイレ掃除とは言いません、断じて。

 全身が脱力。少しでも期待した俺が馬鹿だった。って、そんな場合じゃなくて、いい加減止めないといけないのだけれど……。

「フッ、やはりケモノはケモノ」

「うぬぬぬぬぅ!」

 ……うん、止めないといけないのだけれど、このふたりの争いを止める自信はない、と自信を持って断言できるわけで。

 声をかけるべきか、もう少し様子を見るべきか、どうしよう。

 首をひねってみるが、その悩みはすぐに解決した。

「あ……」

「あ……」

 重なるトーニャと俺の声。何気なくこちらを向いたトーニャと、思いっきり目が合ってしまったのだ。かと思うと、

「フッ」

 と、眼を光らせてにんやりと笑うこの銀髪の悪魔っ子(ロシア産)。

 うわぁ。あれは何か良からぬことを思いついた顔だ、絶対に。このままでは危険だ、と俺の全身の本能が告げている。

 慌てず騒がず、回れ右。

「さ、さぁて、後は若い者に任せて年寄りは退散するとしますかのぅ」

「同学年でしょうが!」

 突っ込みとともに放たれたキキーモラに、瞬時に捕まってしまった。そのままずぅり、ずぅり、と引き寄せられる。これは、なんというか……ああ、捕食者に引っ張られているご馳走のような気分。

「人の顔をみるなり逃げ出すとは、あっぱれな根性ですね、如月くん」

 と、ジト眼のトーニャ。

「いや、それはその、誤解といいますか、見解の相違といいますか、べ、別に逃げたわけじゃなくて、巻き込まれないように一時的に避難……もとい、二人の交流を邪魔しないように、しばらくあたりを回ってこようかなぁ、と思っただけでして」

「へー、ほー、そうですか。それはそれは」

 棒読みで、俺の言葉など最初から聞く耳持たずといった感じだ。しかし、

「ん、双七くん?」

 と、すずが俺の存在に気づいて声をあげたところで、トーニャの表情が急に緩む。同時に、すぅ、と息を吸い込んだかと思うと、

「あんっ、いやん!そんな、駄目ですよ如月くん!いくらわたしがキュートでプリティて可愛くて、どこぞの雌狐なんて全然、まったく、これっぽっちも問題にならないくらいに魅力的だからって、こんなところでっ!」

 絶叫した。

 ……へ?

 いや、駄目もなにも、俺、キキーモラに捕まってるだけなんだけど。

 いったい何を?そう思ったのもつかの間。

 ガチャガチャ、ガチャチャ、ズバン!

「な、な、何やってんのよ、こんな公共の場で!変態、ダメ、絶対!猥褻物陳列禁止!」

 部屋のドアを勢い良くあけて、すずが飛び出してきた。

 そう言われても、何もしてないわけで。

 しんと静まり返る廊下。

 ややあって、状況を理解したのか、

「あ……」

 と固まってしまうすず。……おまえって奴は。

 トーニャが、やれやれといった具合で、大げさに溜息をつく。

「普通、こんな手に引っかかりますか?」

「う、こ、こ、このっ、狸娘がぁー!」

 今度はすずの大声が廊下に響き渡る。

「お、落ち着けって。そもそもおまえが鍵を開けなかったのがいけないんだろ」

 なだめようとするも、すずは勢いもそのままに俺に向き直り、

「双七くんはちょっと黙って――」

 と途中で言葉を切って、急に変な顔をした。かと思うと、鼻をひくつかせ、

「ん?かすかに変なにおいが……双七くん、なにこのにおい?」

 言って、首をかしげる。

 におい?ああ、あの子犬のにおいかな。そうだ。ちょうどいいから犬について聞いてみるか。

「そうそう、見回りの道の途中に子犬が捨てられててさ、それで……」

 と、事情を説明しようとする俺の言葉を遮って、

「子犬!?双七くん、犬に触ってきたの!?どこで?なんで?どーして!?さては浮気?浮気なの!?わたしという狐がありながら!!」

 がーがーと捲くし立てるすず。なんだ、その微妙に昼ドラチックな言い回しは。

 どうやら聞くまでもなく、家で飼うのは無理っぽい。どうしたものかなぁ。

「考え事を遮るようですいませんが、如月くん、取り合えず部屋に入りませんか?」

 トーニャが言う。

 ああ、確かにこんなところで立ち話っていうのもおかしな話だし、と肯こうとしたところで、廊下の先で語り合っているご近所さん達が視界に入る。

「廊下でロープを使って束縛プレイだなんて、最近の子はめりっさ進んでるわぁ」

「妹さんとクラスメイトで禁断の三角関係!?やさしそうなお兄さんだと思ってたのにねぇ」

 なんかもう、勘弁してください。

「このままだと不名誉な噂が立ちかねないと思うのですが――主にわたしにとって」

 と、涼しい顔のトーニャ。

「誰の所為だよ、誰の!というか、わたしにとってって、俺は!?」

「それはそれ、こういう類の噂はもてる男の勲章だとでも勘違いしていてください」

 そんな勲章、要りません。

 なんとか誤解を解き、部屋に戻った時には既に7時を回っていた。

 

 

 

「残念ですが、わたしの家は無理ですね」

 三人で作った夕食を囲んで、先ほどの子犬の話をする。飼い主を探していると告げたところ、トーニャの答えがそれだった。

「そっか、うん、わかった」

 俺たちだって飼えないんだし、それぞれ事情があって当然だ。

 トーニャに肯きながら、皿に残っている料理を口にする。今日はぺリメニとウハーというロシア料理だ。

 ぺリメニは薄いパン生地にひき肉を詰めた、餃子のような食べ物で、以前、歓迎会のときも作ってくれたやつだ。ひと噛みすると、サワークリームのさわやかな酸味とともに、ジューシーな肉汁が口内に広がる。

 もうひとつの、ウハーというのは魚のスープ。今日は鮭をメインに、ジャガイモや人参を加えている。さっぱりとした味わいに、ディルとかいうハーブの香りがマッチしておいしい。

 ゆっくりと味わいたいところだ。

 ――そうなのだけれど、この二人が落ち着いて食べているはずもなく。

 すずは意地の悪い笑みを浮かべたかと思うと、

「あーあ、犬のひとつも飼えないなんて、まったく、肝心な時に役に立たない狸ねぇ」

 やれやれといった具合に言う。

 だから、夕食時にまでケンカの大安売りはやめようよ、本当に。

「犬を怖がるような臆病狐に言われたくはありませんが」

 トーニャも思いっきり買う気満々だし。

「こ、怖がってるわけじゃないわよ!ただ、昔から言うでしょ!妖狐に犬はダメなのよ!」

「たかが犬っころ一匹に怯えておいて、大妖怪が聞いて呆れますね」

「うぬぬぬぬぅ!」

 ……なんだかんだで、ふたりともこんなやり取りを楽しんでるのかもしれないなぁ。まあ、廊下ならともかく、部屋の中でなら、これくらいの言い合いで近所迷惑なる事もない。そんなわけで、ふたりの言い合いを聞き流しながら、もぐもぐと咀嚼。皿に残ったぺリメニにフォークを伸ばしつつ、すずの言葉を考える。

 昔から狐は犬が苦手、か。そういえば、以前そんなことを読んだような。おっちゃんのところで目を通した妖怪に関する書物を思い出す。

 そうだ、確か、狐が犬を嫌う例として、犬に正体を見破られた化け狐の話が載せられてたんだっけ。

 段々と、思い出してくる。そう、それは、狐という動物が、まだ「きつね」という名称で呼ばれていなかった時代の話。

 独身で妻を求めていた男が、野原で美女と出会い意気投合、結婚した。

 二人は男の子を授かり、穏やかな日々を送っていた。ただひとつ、男の飼い犬が妻に懐かず、それどころか敵意を剥き出しに吠えてまわることを覗いては。

 そしてついに、犬は妻へと襲い掛かってしまう。恐れ怯えた妻は、変化が解けてしまい、正体を、つまり今の時代において「狐」と呼ばれるその動物の姿を、男にさらしてしまう。

 けれど男はその狐に「おまえと共に過ごした日々を、俺は絶対に忘れたりはしない。いつでも家に来い。また共に寝よう」と声をかけた。狐もその言葉通り、度々男の家を訪れたという。

 その「来て寝る」という行為が、当時の言葉で「来つ寝[きつね]」。これが由来となって、その動物のことを「岐都禰[きつね]」と呼ぶようになった、という話だった。

 男が妻の正体を知っても、共に居たいという辺り、これまでの昔話のイメージと違うなと思ったものだ。

 ただ、この話には、あと少しだけ続きがある。その妻だった狐は、ある日、紅の襴染の裳を着たあでやかな姿で男の前に現れたのを最後に、姿を消してしまった。男は妻の恋しさに歌を詠み、自分の息子の名前を「岐都禰[きつね]」とし、姓も「狐の直[きつねのあたへ]」とした、というものだ。

 なぜその狐が男から離れていったのか。それはわからない。けれど、正体がばれた後も男の元を訪れていたのだから、男を嫌っていたわけではないと思う。だったら、共に側にいたいと思っていても、別れなければならない理由があった、ということなのだろうか。それとも、やはり妖と人は共に歩んでいけない、ということなのだろうか。

 その想像は、胸に小波を起こさせる。わかっている。これは自己本位な感傷に過ぎない。わかっているけれども、それでもすずと結び付けて考えてしまう。

 いつかすずも人間社会から離れなければならない日が来るのだろうか。

 その考えを、杞憂だと全力で否定する。

 大丈夫に決まっている、だって、すずはみんなと上手く過ごしているじゃないか。そう、今だって仲良く……。

「あら、このぺリメニ、形はぐちゃぐちゃ、中身は飛び出して、なんて悲惨な。一体誰が包んだんでしょうね」

「う、うるさいわね。初めてなんだからしょうがないでしょ」

 えっと、仲良く……。

「そうですよねー。仕方ありませんよねー。所詮は狐。肉球が邪魔で料理も出来ませんか。ああ、残念無念」

「うがー!」

 ……うん、仲良くかどうかはともかく、なんとなく大丈夫のような気がしてきた。

 と、料理を食べ終えたトーニャが、腰を上げる。

「ごちそうさま。さて、あまり遅くなってもいけませんし、そろそろわたしは帰りますね」

「あ、もう随分遅いし、送っていこうか?」

「それにはおよびません。その代わりといってはなんですが、如月くんは後片付けをお願いします」

「ああ、わかった」

 玄関までトーニャを見送る。

「料理ありがとう。おいしかった」

「ロシア料理な上に、このわたしが手伝ったんですから、当然です」

 と少し自慢げにトーニャは帰っていった。

 部屋に戻って、さっそく皿を台所へ移す。食後に一息したいところだけど、一度ゆっくりしちゃうと皿洗いが面倒になってくるからなぁ。

「さて、ちゃっちゃと片付けるとするか」

 言葉に出して自分に言い聞かせる。すると、

「うんうん、えらいえらい。ガンバレガンバレ」

 ソファーに横になったまま、すずが足をバタつかせた。

「おう、頑張る頑張る、って、違うだろ。おまえも頑張るんだ」

「ちぇ」

「ちぇ、じゃない。ほら」

 以前さくらちゃんにもらったエプロンを、すずに差し出す。

「わかってるわよ。ちょっと言ってみただけじゃない」

 ふたりしてエプロンを着けて皿洗い。

 こうして今日も、夢のように平穏な一日が過ぎていくのだった。

 

 

 

 次の日、マンション前でいつものようにさくらちゃんと美羽ちゃんと合流。互いに朝の挨拶を交わして、登校することになった。

 朝日の中を、四人で通学。もはや日常となりつつある光景。

 すずと美羽ちゃんが前のほうを歩きながら、昨日のテレビ番組について話す。

 そのうちにさくらちゃんが隣に来て、少し遠慮がちに尋ねてきた。

「あの、すずさんはどうでした?子犬さんのこと……」

「うん、やっぱり犬は苦手みたい。さくらちゃんの方は?」

「先ほど美羽ちゃんには聞いてみたんですけど、美羽ちゃんのお家も、飼うのは難しいそうです。クラスのお友達にはまだ確認してないので、今日尋ねてみるつもりですけど」

「うん、おねがい。俺もクラスで飼いたいって人がいないか、探してみるよ」

「了解です」

 二人して肯きながら、学校へと向かった。

 

 

 

 そして放課後。

 結局、クラスでも子犬の引取手は見つからず、収穫なしにすずと生徒会室へ赴く。到着すると、既に上杉先輩と七海さんが来ていた。

「如月くん、すずさん、お疲れ様」

「おー、おつかれー」

 七海さんは折り目正しく、一方で上杉先輩はだらしなさ全開で、片肘を机につけ、その掌で頬を支えながら、もう一方の手を軽くひらひらとさせる。

 その上杉先輩の態度に七海さんが溜息をついた。

「まったく、あんたはいつもいつも。少しは先輩らしい態度のひとつもできないの?」

「んー?いいんだよ、俺は。そんなに外見取り繕わなくても内から光るっていうか、なんつーの?ほら、威厳っつーか、オーラっつーか、なぁ?」

 なぁ、と言われても。

「えっと、黙秘権を行使させて頂きたく……」

 言葉を濁す俺を見て、七海さんがさらりと、

「素直に言ってもいいのよ、如月くん。威厳なんてそんなの微塵にも、それどころかミジンコ並みにも感じられないって」

 ずるっと、上杉先輩の頬が掌から滑り落ちる。

「ミ、ミジンコだぁ?おまえなぁ、いくらなんでも、んな細胞がひとつしかないのと一緒にすんなよ」

 怒るというより呆れ顔の上杉先輩に、すずと七海さんが、

「そう?ぴったりじゃない」

「ねぇ」

 と肯き合った。

「素直な感想があまりにもひでぇ!」

 机に突っ伏して呻く上杉先輩に、七海さんが追い討ちをかける。

「ついでに言っとくけど、ミジンコは単細胞生物じゃないからね。節足動物甲殻綱、海老や蟹の仲間で、立派な多細胞生物よ」

「ぐがっ」

 上杉先輩、散々だなぁ。

 すずが得意げにひとさし指を立て、

「大体ねぇ。威厳なんてものは他人に認められてこそ意味のあるものでしょ。だったら、黙ってても内から滲み出るようでないとね。自分で、自分には威厳があるんだ、なんて口にすることほど悲しいことはないわよ」

 言ってることはもっともなんだけど、すずの口から出ると説得力がいっきになくなる気がするな。

 いや、それをいったら、あの八咫鴉が神の遣いっていうのが一番信じられないんだけど。

 むきー!とでも言いたげに両手を振り回す八咫鴉の姿が脳裏に浮かぶ。その姿はどう見ても駄々をこねる子供そのもので――……というか、嫌なもの思い出しちゃったなぁ。

 八咫鴉を脳裏から無理矢理押し退けて、ほかの事に意識を向けることにする。

 ほかの事――そうだ。生徒会活動開始までまだ時間があるし、丁度いいから、あの子犬について二人にも聞いてみよう。

「あの、聞きたいことがあるんですけど……」

 俺は上杉先輩と七海さんに事情を説明した。

 七海さんは申し訳なさそうに少しうつむくと、

「ごめんなさい。家は病院が忙しくって構ってあげられないから……」

 上杉先輩も頭を書きながら、

「んー、俺ん家も飲食店だからなぁ……」

 ということで、二人とも駄目だった。

 うーん、残念。

 話している内に、狩人と刀子先輩が集まってくる。念のために二人も尋ねてみることにした。

 狩人は俺の話に最後まで耳を傾けると、おもむろに口を開き、

「すまないが、僕もお役には立てないんだ。なにせ犬に大声で鳴かれると、そのたびに鼓膜が破れたり、心臓発作で心停止したりしかねないからね」

 もはや何も言うまい。

「刀子先輩は……」

 と尋ねてみたところ、

「申し訳御座いません。私はその、なぜか動物に懐かれないと申しましょうか、嫌われてしまうと申しましょうか……ですので、残念ながら」

 刀子先輩が動物に懐かれない?最も動物に好かれそうな人なだけに、意外だ。けれど、刀子先輩がそんな事で冗談を言うとは思えないし。

「そうなんですか。無理言ってすいません。飼いたいという人がいれば、という話なんで、気にしないでください」

 とだけ答える。刀子先輩は、

「あ、はい。私のほうこそお力になれず、申し訳ありません。子犬を飼いたいという方がいらっしゃったら、お知らせしますね」

 と、約束してくれた。

 刀子先輩のその気持ちは本当にありがたい。

「よろしくお願いします」

 と、素直に口にする。

 けれど、子犬の里親探しは、事実上、暗礁に乗り上げてしまったわけで。困ってしまった。

 どうしたものかと頭を掻く。しかし、そのことばかりに気を揉んでもいられない。今日はこれから、地域の見回りがあるのだ。

 皆に聞き終わったころには、トーニャにさくらちゃんに美羽ちゃんも集まった。刀子先輩が確認を取る。

「皆さんそろいましたね。それでは、はじめましょう。といっても、本日は特に話し合わなければならない議題はございません。皆さんのほうから何もなければ、昨日に取り決めた通り、地域の見回りを行いたいと思いますが、如何ですか?」

 刀子先輩が、顔を動かし、ひとりひとりを見つめる。意見を言う者はなかった。

「わかりました。では、これより見回りを行います」

 刀子先輩の言葉を合図に、地域の見回りが始まった。

 

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