刀子さん、頑張る 2 「十人十色な過ごし方」

 

 

『バレンタインデーのチョコレート!?』

 皆さんの確認の言葉に、私は両手をもじもじさせつつ、力なく頷いた。

「お恥ずかしながら、そうなのです」

 うな垂れた頭がさらに下がる。

 そんな私の言葉に、狩人くんは遠くを眺めるような目をして、

「バレンタインデー、ですか。そういえばもうそんな時期でしたね。ああ、今年もまたあの辛い日がやって来るのかと思うとそれだけでごふっ」

 唐突に吐血。相変わらずこちらの心臓に悪いです。

 いつものことなので、回復なさるまでそっとしておこう――と思ったのですが。

 血を口元にたらし青い顔をしている狩人くんに、刑二郎くんが詰め寄った。

「な、なんでテメェがバレンタイン辛いってんだよ。毎年これでもかってくらいチョコもらいまくってんじゃねぇか!!あれか、あれなのか、『いやぁ、今年もまた貰い過ぎてしまいましてね。このままでは糖尿病で死んでしまいそうですよ、はは!』ってな具合か? よーし、謝れ。とりあえず俺に謝れ!次に神沢学園全男子生徒に謝れ!ついでに神沢市に住む全男性に謝って、世界の人口の約半分にも謝っとけ!」

 狩人くんの両肩を揺さぶる刑二郎くん。かっくんかっくんと。ついでに、揺さぶられる狩人くんの頭も、怪しい方向にかっくんかっくんと。

 刑二郎くん、狩人くんのことを知らない人から見たら完全に悪者です。

「ほっとけ!悪者でもなんでもこればっかりは納得行かねぇ!」

 刑二郎くんが涙目で訴える。……何も泣かずともよろしいのではないかと思うのですが。

「先輩、少々誤解されているようなのですが……」

 復活した狩人くんが、刑二郎くんに訴えた。

「あん?誤解だ?」

「ええ。僕の辛いは、チョコを貰い過ぎて辛い、というのとは少し違うんですよ」

「だったらなんでだってんだよ?」

「それはですね。実は、彼女たち、ああ、僕を好いてくれている女の子たちのことなんですけれど、チョコレートをくれるのはとても嬉しいんですが、少々加減というものを知らなくて……。少しでも早く僕にチョコレートを渡そうと大挙して押し寄せてしまうんですよ。もちろん押すな押すなの押し問答。で、その結果、中心にいる僕はプチッとなってしまう、という訳でして」

 なるほど。狩人くんがバレンタインが辛いと言う意味は良くわかりました。わかりましたが、何がどうプチッとなるのかは想像したくないところです。

「ああ、プチッといっても、堪忍袋の緒が切れる、などという無粋な比喩表現ではないですよ。少し具体的言うと、ただ単に僕の四肢がプチッとなるというだけのことでして……」

 狩人くん、折角のオブラート的なものが台無しです。

「えと、愛野先輩は愛野先輩で大変なんですね」

 さくらちゃんが気遣う。

「まあね。とはいえ、僕にとって憂鬱なのはあくまでバレンタインデー。彼女たちの好意自体は、純粋に嬉しく思っているさ。だから、もちろんそのことで彼女たちに恨みを持つことなどもない。感謝しこそすれ、ね。なにせ、彼女たちには何の罪もないんだから。仮に何かに罪があるとするならば、それは――そう、僕。女の子たちを惑わし、魅了する、僕のあまりにも卓越したこの美貌こそが、最大の罪なんだろうね。いやぁ、美しくあるとはすなわち、命がけだね」

 さらさらの後ろ髪を颯爽とかき上げて笑う狩人くん。ですが、命がけなのは狩人くんに限ったことではないかと。

 そんな狩人くんの言葉に、

「……なんつーか、うらやむ気力も失せたわ。へー、へー、いーさ、いーさ、どうせ俺はもてねーよ」

 と、やさぐれる刑二郎くん。もともと刑二郎くんには羨む資格も必要もないような気がするのですが……。

 周りを見渡せば、美羽ちゃんが、

「………………」

 と、黙って口を結び、ただ胸のお人形を少し強く抱きしめていた。

 さくらちゃんは美羽ちゃんを

「美羽ちゃん、がんばっ!」

 と励まし、伊緒さんはそんなふたりの様子を眺めつつ、

「本当、馬鹿なんだから……」

 と呟く。

 トーニャさんが伊緒さんの肩に手を置いて。

「伊緒、あなたも大変ね」

 伊緒さんはゆっくり首を振り、

「……わたしはもう、ね」

 そうして、寂しそうな微笑を返した。

 ……やはり、刑二郎くんに狩人くんを羨む資格はないようです。

「本当に、刑二郎くんには困ったものですね」

 私のそんな言葉に、刑二郎くん以外の皆がそろってため息と共に頷いた。

「ん?なんだ、お前ら?」

 一人不思議がる刑二郎くんをよそに、さくらちゃんが口を開いた。

「それにしてもチョコレートですか……。刀子先輩はこれまでにチョコを作ったことはないんですよね」

「あ、はい。なにぶん殿方にバレンタインに贈り物をするなどという経験、これまでなかったものですから、勝手がわからず……」

 伊緒さんが続けて言う。

「なるほど。初バレンタインですか」

「そうなのです。去年までは考えても見ませんでしたが、今年はやはりその、こ、恋人としてはですね、欠かせないかと思いますし……」

 言いながら頬に火照りを感じる。自分の顔は赤くなっているに違いない。

 すずさんが笑っているようで引きつっているような微妙な表情を浮かべ、

「おー、おー、熱いわねー、このっ、このっ」

 と肘で突いてくる。

「す、すずさん、からかわないでください。……えっと、それに、ですね。双七さんには、こういった学園生活に付随する様々なイベントも経験していただいて、楽しい思い出にして欲しいですから……」

 バレンタインデー。

 そう、それは、去年まで私には無縁だったもの。いや、兄さまの代わりに消えようと覚悟していた私には、無縁でなければならなかったものだ。

 そして、それは、施設に閉じ込められていた双七さんにとっても、同じだったのではないか。関わる事が出来なかった、無縁でなければならなかった、そして、取り戻すべき学園生活の1ページなのではないのか。

 だからこそ、今更ながら、私は、双七さんと、そのイベントを楽しみたいと、そう思う。

 皆さんはどんな気持ちで2月14日という日を迎えていたのかを知りたいと、そう思う。

 食べてくれるだろうか、喜んでくれるだろうか、そういった不安を感じながらも、喜ぶ双七さんの顔を思い浮かべるだけで、胸が弾む。心が躍る。そんな苦しくも嬉しい時を過ごし、チョコレートをあげて、喜んでもらい、二人の学園生活の幸せな思い出のひとつにしたいと、そう思う。

 そんな学園生活の思い出を彼にあげたいと、そう思うのだ。

 だって、双七さんと私は、掴まなければならないから。

 以前ははあきらめていた、平凡な、それだけに大切な幸せを、そんな日常を。

 それが、兄さまとの約束なのだから。

「刀子……」

 最初に呟いたのは、それまで私を突いていたすずさん。その後に

「刀子先輩……」

 と、さくらちゃんが続いた。

「ラヴですね」

 とはトーニャさん。その言葉に、狩人くんが頷く。

「そんなことを言われたら、協力しないわけにはいきませんね」

 刑二郎くんは頭をかきながら、

「ま、しゃーねーな」

 美羽ちゃんが手に持つお人形を胸に掻き抱き、自分の口を開いて、

「……ゎ、わたしも、お二人のお役に立てるよう、がんばります、です」

 そして、

「そうですね。如月くんにはこの神沢学園で、楽しい思い出を作って貰わないといけませんからね。もちろん刀子先輩にも」

 伊緒さんのその言葉に、皆さんが頷いた。

「み、皆さん、ありがとうございます!」

 そう言う私の声は少し明るい涙に湿っていて。

「私、頑張ります!頑張って、双七さんに喜んでいただきます!双七さんに幸せな学園生活の思い出を作って差し上げます!なにより、それが私の幸せでもありますし、それに、それに……――それに、もしも、です。もしも、その、双七さんが、ほ、他の女の方からチョコレートを貰い、その一方で私が差し上げることが出来なかった、などという事態が起こりますと、少々問題があると申しますか…………さ、さらに、その結果…………――――も、もしも、ですよ、もしも。……も、し、も、の話ですけれど、双七さんに限ってそのようなことはないと信じておりますけれど…………もしも、双七さんがなにかしら『良からぬ気』でも起こそうものならですね、折角のバレンタインが幸せな思い出にならないと申しましょうか、それどころか流血色の思い出になると申しましょうか」

「なるほど、それもそうですね……って、ちょっと待ってください、今、何気にものすごく物騒なこと言いませんでしたか刀子先輩!目、目が怖いですよ、それ、真面目に人を切る目してませんか!?」

「あら、そんなことありませんよ、伊緒さん。私、双七さんのことを信じておりますから」

 うふふふふっ、と私の今の心境を表現するかのように、朗らかに笑う。

 なのになぜか慄く皆さん。

 すずさん曰く、

「刀子、目は笑ってるようでいて、その奥の瞳がぜんっぜん笑ってないわよ……。なんか背景で火山が噴火しそうな勢いだし、それまでのいい流れが絶望的に台無しっていうか、ぶっちゃけ怖い」

 とのこと。

 そんなことありませんよ、とさらに微笑む私に、刑二郎くんが言った。

「んなこと言ってもよ、刀子と双七はいまや神沢学園有数のバカップルだろ。それをいまさら……」

「ふふふふふっ……って、バ、バカップル!?バカップルってなんですか刑二郎くん!私たちは、そ、そんなことありませんもん。そ、それはちょっとは、その、度が過ぎるかなー、などと思うこともなきにしもあらずのような気もしないでもないですが、大方においてはきちんと節度を守ってですね……」

 私の弁明をトーニャさんが遮る。

「あれで節度を守っているというなら、世の中のバカップルの大多数は品行方正なお付き合いをしている、ということになる気がするのですが」

 なぜかトーニャさんの言葉にうんうん、と頷く皆さん。

「そ、そんなことありませんもん!」

 両腕を上下に振りつつ否定してみますが、皆さん全く納得してくれていないご様子。

「ありませんもん!もん!」

 とさらに手をぶんぶんさせる私に、

「刀子先輩、戦わなきゃ、現実と」

 と、トーニャさん。

 ――そ、そんな。今でさえ、バカップルなどと言われないよう、校内での腕組などは自重しているというのに、これ以上いちゃつく……もとい、健全に絆を育むことを控えるというのは、あんまりです。

「その発想からして、すでにバカップル的思考なのだいうことをまず自覚してください。あと、今、考えてること思いっきり口に出してましたよ、刀子先輩」

「むぐっ!……うう、刀子一生の不覚です」

『………………』

「な、なんで皆さん、一体何度目の一生の不覚ですか、とか、いつものことのような……、とか、日常茶飯事なのです、的な視線で私を見るのですか!?私、そんな失態ばっかりじゃありませんから。バカップルでも、うっかりさんでもありませんから!ありませんからね!」

 再びぶんぶんしつつ主張して見るも、またもや全く受け入れてもらえなかった様子。うう、視線がつらいです。

 結局私の意見は通ることのないまま、刑二郎くんが言う。

「まあ、このさい刀子と双七がバカップルなのかどうかは置いておくとしてだな、ほとんど神沢学園公認のカップルみたいなもんであることは確かなわけだ。で、その双七にいまさら本命チョコやろう、なんて奴がいるとも思えねぇがな」

 ――言われて見ればそのような気もします。まさかバカップルとして……ではなくて、私と仲むつまじい恋人同士として有名な双七さんに迫ろうという方がそうそういるはずは……。

「こ、こほんっ、こほんっ」

「さくらちゃん、どうかなさいましたか?」

「な、なんでもありません、ちょっとむせちゃっただけで……。ど、どうぞ続けてください」

「は、はい。それでは……。ええっと、仮に双七さんに、その、浮気の可能性がなくてもですね、やはりその、チョコをプレゼントしたいと思っているのです。ですが……」

 狩人くんが私の言葉を補う。

「そのチョコが、いくら練習してもうまく作れない、と」

「はい……。気持ちだけは込めているつもりなのですけれど……」

 私の言葉に、すずさんが首をかしげる。

「でも、一からチョコ作るってんならともかく、そういうわけじゃないんでしょ。チョコレートなんて、そこらへんで板チョコ買ってきて溶かして、型にでも流し込めばなんとかなるもんじゃないの?」

「それはそうなのですけれど、それができないから困っているわけでして……。恥ずかしながら私、こと洋食となると、その、超がつくほど不器用になるといいますか、先ほど刑二郎くんも言っておりましたが、食パンにバターを塗ることすら一苦労といった有様でして……」

 トーニャさんが

「それは超がひとつではとても足りていないレベルな気がしますが」

 と突っ込みながらも少し呆れ顔だ。

「私としても、それはよくわかっているのです。けれど、だからこそ解決策が見つからない次第でして……」

 皆さんそろって考え込んでしまう。

 その沈黙を破ったのはすずさんだった。

「ところでさ、ちょっと聞きたいんだけど……この中で今年、バレンタインにチョコ作って誰かにあげようって人、刀子以外にもいるの?」

『!!』

 皆さんが一様に驚きの表情を浮かべ、再び黙り込む。その雰囲気に気づいていない様子で、すずさんは続けて言った。

「チョコ作りの経験がある人間がどれだけ居るかで、対策のしようも変わってくると思うんだけど。例えば、さくらは?今年のバレンタイン、どうするの?」

「は、ははははい!?わ、わわわ、わたしですか!?え、え、え、えと、わ、わ、わ、わたしはその、そんな、だ、だだだだいそれたことは、お、お、恐れ多いというか、もったいないというか、そんな感じでして、その、ですから、ちょ、ちょこけっ、けほっ!こほっ!けほん!けほけほけほっ!けふっけふっ、けふっ!」

 大慌てで手をぶんぶん振っていたかと思うと、盛大に咽るさくらちゃん。

「さ、さくらちゃん、大丈夫ですか!?」

「けほっ、けほっ、は、はい、大丈夫でけほっ……です。こほっ、ちょっとびっくけほっ、しちゃこほっ」

 プライベートに関する問題ですし、急に尋ねられては驚くのも無理からぬ事かもしれません。私はすずさんに提案した。

「あの、すずさん、やはり色々と繊細な問題もある話題かと存じますし、このような大勢集まっている場所で他の方にお聞きになるのは控えたほうがよろしいかと思うのですが……」

 私の言葉に、意外にもトーニャさんが口を挟んだ。

「いえ、少なくともわたしに関しては問題ありませんよ。といっても、わたしはチョコレートを用意する予定など全くありませんが。ま、現代の日本のバレンタインデーなんて、基本的にバカップルの愛欲と企業の商業主義的策略に染まった俗なイベントでしかありませんからね。そんなイベントにわたしが参加することなどありえません。挙句の果てには、友チョコ?逆チョコ?はっ、誰がそんな見え透いた手に乗るものですか」

 言いつつ、手をひらひらさせるトーニャさん。確かにおっしゃることは一理あると思うのですが……。

 すずさんが、ふぅ、とため息を付きつつトーニャさんの肩に手を置いた。

「まったく、素直じゃないわねー、狸娘。正直に言ったらいいのに。チョコあげる相手がいませんって」

「な、何を言いますか、この行かず後狐!そういうあなたはどうなんですか!まさか、あげる相手がいるとでも言うのでしょうかいやいない!」

「だ、だれが行かず後狐なのよっ!ていうか、行かず後狐ってなんなのよ!?語呂むちゃくちゃ悪いじゃないのよ!あと、勝手に反語で断定するなぁ!」

 すずさんの突っ込みをことごとく受け流していたトーニャさんですが、最後の言葉が聞き捨てならなかった様子。すずさんに訝しげに尋ねた。

「ちょ、ちょっと待ってください。ではチョコをあげる予定があるとでも……?」

「もちろん、あるわよ」

「にゃ、にゃんですとっ!?」

「ふふん、テレビで見たけど、バレンタインデーって、別に恋人としての好き、とかでなくてもチョコあげたりするんでしょ。だから、わたしはほら、双七くんにあげるの。実は美羽と一緒に少し前から練習してるし。ねー、美羽」

 すずさんの言葉に、美羽ちゃんが同意した。

「はいなのです。最初は大変だったですけど、最近はわたしもすずさんも、何とか食べられるものを作れるようになってきたのです」

 なんということでしょう。私と同じような苦労をし、乗り越えようとしている人が、こんなにも身近にいたとは。しかも、お二人ともチョコを作れるようになってきた言います。同じことを試みて全く進歩のなかった私としては、羨望の眼差しを禁じ得ません。

「うう、お二人とも凄いです……」

 思わず感嘆の念が漏れる。

 一方、トーニャさんはといえば、

「な、なるほど。そういうことですか。しかし、安心したような敗北したような……」

 と小さく呟いていた。が、すずさんの

「ま、そんなわけだから、あんたは兄にでもチョコあげたら?」

 という一言に、ぴくん、と動きが停止した。

「え、あ、兄?」

 何のことかわからない、という風に首をかしげるトーニャさんに、すずさんがにっこりと頷く。

「そ、兄」

「…………」

「…………」

「………………」

「………………」

「…………………………」

「…………………………」

 長いようで短い沈黙が、あたりを支配する。

 耐えかねたのか、さくらちゃんが声をかけた。

「…………あ、あの、トーニャ先輩?」

 トーニャさんは、その呼びかけに小さく口を開け、

「…………い……」

『い?』

私も含め、皆さんの視線がトーニャさんに集まった次の瞬間、

「…………い……いやああああああああああぁぁぁぁぁ!!負けでも後家でも何でもいいですから、それだけはいやあああああぁぁ!死ぬ、死にます!死んでやります!そんなことするくらいなら今すぐここで死んでやるうぅぅ!」

 トーニャさんご乱心!?

「ト、トーニャ先輩!?落ち着いて、落ち着いてください!別にあげなきゃいけないってわけでもないんですから!」

 さくらちゃんが宥めようとし、伊緒さんがそれに続く。

「そ、そうよ!それに、確かにトーニャのお兄さんはちょっとアレかもしれないけど、なにもそんなことで死ぬことなんてないでしょ!」

「は、離して、さくら、伊緒!!ほんの一瞬でも、あの兄にチョコを渡している自分を、しかも、こっ恥ずかしいラブコメチックに頬を赤らめつつ渡している自分を想像してしまったこの屈辱!この屈辱から逃れるにはもう死ぬしか!死ぬしかないの!お願いだから止めないで!」

 窓から飛び降りようとするトーニャさんを皆で押し留める。

 切々と説得をすること十数分。話を聞くうちに落ち着きを取り戻したのか、何とかトーニャさんの死亡は免れた。……暴れるトーニャさんに吹き飛ばされた狩人くんは、二回ほど死ぬことになりましたけれど。

「失礼。少々、取り乱しました」

 と、トーニャさん。少々どころではなかったような気もしますけれど、それは言わぬが花というものなのでしょう。

 それにしても、折角の兄弟なのですから、なにもそこまで嫌がらなくてもいいと思うのですが。

 美羽ちゃんの、

「……なんだかトーニャ先輩のお兄さんがお気の毒になってきたのです」

 という呟きに、あの藤原さんの件での芝居の脚本を書いたのがトーニャさんのお兄さんであると知っている私であっても、同意してしまいそうです。

 ふと、その呟きが耳に入ったのか、トーニャさんが美羽ちゃんに話しかけた。

「……美羽、甘い。甘すぎるわ」

「え?……えっと、そう、ですか?」

「ええ、甘すぎ。それこそ、さながらチョコレートの如く激甘ね。いい?美羽。この際だから言っておくけど、私の兄には十二分に注意しなさい。どれだけ注意しても、注意しすぎるということはないから。わが兄ながら、それだけ危険な人物なのよ」

「……そうなんですか?」

 首をかしげる美羽ちゃんは、あまりトーニャさんのいう危険さを実感できていない様子。トーニャさんは美羽ちゃんの問いかけに頷き、ゆっくりと口を開いた。

「そうね、例えば……去年のバレンタイン前日の話なんだけど、兄が山のようなチョコレートと塗装用の大きなはけを買って来てね、いったいこれは何かと尋ねたら、返答で『決まってるじゃないか、マイシスター、照れ屋の君のためにこの僕から愛の贈り物さ!なんたって明日はバレンタインだからね。 さあ、材料はこの僕が用意した。あとは君がこのチョコレートを存分にその白い素肌に塗りたくって、誰かに日ごろの気持ちを伝えるだけさ!おっと、もちろんチョコをあげる相手は僕でなくたってかまわない。――僕はただ君が、期待と不安、そして羞恥に顔を赤らめつつもその薄い胸板にチョコを垂らす、そんな姿を見ることが出来れば それだけでもう十分満足なのさ!白い肌、赤く染まった頬、そして滴る茶色いチョコの三様のコントラスト。そして魔法の合言葉はもちろん「わたしをた・べ・て。はぁと」ああ、これぞジャパニーズグレイトカルチャー「私がプレゼント大作戦」!なんて心を潤してくれる響きだろうね!日本の生み出した文化の極みだよ!そう思わないかい、マイシスター!! この日本文化の魅力の前ではトーニャんの体の貧相さなんて些細な問題さ!ああ、そんな君の姿を想像するだけで、ぼかぁ、ぼかぁもう!!』 なんてぬかしつつ、気持ち悪い唇を突き出して抱きついてきやがるような、そんな男なのよ、うちの兄は。もちろんその瞬間、空の彼方にすっ飛ばしてやったんだけど」

『………………』

 一同、声なき声で、低く唸る。

 少々どころではない気まずい静寂が、再び周囲を支配する。

 私も含め、誰一人、一言も言葉を発することが出来なかった。

「……少しはご理解いただけましたか?」

 トーニャさんのその言葉に、私も含め、皆さん無言で頷くのがやっとだった。

 そして、続けて発せられたトーニャさんの

「でしたら、皆さん、わたしの兄には絶対に気を許さないようお願いします。また、可能な限り係わり合いにならないようにして下さい。これ以上犠牲者を出したくありませんし。それだけで、身内の恥を晒したかいもあるというものですから」

 哀愁の漂ったこの言葉に、私も含め、皆さん無言で何度も何度も、こくこくこくと頷くのだった。

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