『あやかしびと』及び『あやかしびと―幻妖異聞録―』の、一乃谷刀子ルートエンド後の二次創作SSです。
『あやかしびと』及び『あやかしびと―幻妖異聞録―』のネタバレを含みます。ご注意ください。
夜の帳が色を薄め、空は端から白みを帯びる。
星の微かな瞬きが、柔らかな陽に包まれる。
早朝特有の清清しい空気の中に広がる、雀たちのさえずりは、眠る者を優しく揺さぶる、新たな一日の産声であり、清廉なる朝の音色。
その音色を遮る様に、甲高く、鋭利な刀音が、周囲に響き渡った。
音の出所は一乃谷神社に隣接する母屋の一室。そこは、あたかも、薄明かりの差し込む窓の外から隔絶された空間であるかの如く、暗く、重い、澱んだ空気を孕んでいる。
その泥水のように濁った空間の中に、私は一人、立ち尽くしていた。
部屋中に、粘度のある液体の特有のにおいが澱み漂う。鈍い金属音が、早朝の冷え冷えとした空気を裂くように反響し、私の胸をじわりじわりと刺していく。
胸の痛みにせかされるように、部屋に音と液体を散らした原因を、すなわち床に転がった小太刀を、暗然と眺める。
それはたった今、自分の手から滑り落ちたものに他ならない。
微かに視線を移せば、そこには小さく震えている自身の手がある。
物心ついたころよりひたすら続けた鍛錬によって鍛えられた手、自分の業を示した、おおよそ女性らしさとは縁のない無骨な手、けれど、それこそ私がこれまでがんばってきた証なのだと、だから嫌いじゃないと、彼が言ってくれた、誇らしい手。
その手が今、小さく震えている。
所詮、自分のこの、剣のみを携えて来た無骨な手には、あまる行為だったのではないだろうか?
諦めと焦燥が胸を焼く。
小太刀を取り落とした原因が、焦りから掌に浮かぶ汗によるものなのか、それとも陰鬱な失意に支配されつつあるこの心によるものなのか、自身にも判然としなかった。
ただひとつ判ることがあるとすれば、それは。
「……緊急、事態です」
そう、今のこの状況が緊急事態であるということ。
苦々しく口から漏れ出たその言葉は、自分の置かれた状況を再認識させるに十分だった。
自身の呟きと鋭利な刃音は、その場の静寂に吸い込まれるように消えていき、耳には心を急かす残響だけがある。
残響は、まるで警報であるかのように頭でうなり続け、ひとつの言葉を脳裡に轟かす。
――緊急事態発生。
切迫した言葉でありながらどこか抜けた語感の漂うその言葉はしかし、使い古されたものであるがゆえに、自分の今の状況を端的に表しているかのように思えた。
危機、危地、窮地、乙女のピンチ。
なるほどまさに、緊急事態。
これまで一乃谷の末裔として如何様な窮地に身をやつしたとしても感じることのなかったその焦燥に、両の手が更にわななく。
「私はいったい、どうしたら……」
二月の冷気に混じり消えていくその問いかけに、答える声はなかった。
「……と、言う訳なのです」
放課後の生徒会室。今朝の出来事を説明し終えた私に、伊緒さんがおずおずと手を上げた。
「あの、刀子先輩、話が全く見えないんですけど」
その伊緒さんの言葉に同意を示すようにうんうんと、刑二郎くんに狩人くんにトーニャさんにすずさんにさくらちゃんに美羽ちゃん、つまり今、生徒会室に集まっている全員が肯いた。
「うっ……や、やはりそうでしょうか」
私の呟きに、トーニャさんがすかさず指摘する。
「やはりもなにも、刀子先輩の今の話、肝心な情報が何一つ含まれてないじゃないですか。そもそも、いったい何が緊急事態だっていうんですか?」
「ううっ、それは、ですね……」
自分の気持ちを示すかのように声が上ずる。
トーニャさんのその指摘はまったくもって正しい。トーニャさんの言うとおり、私の説明は話の核心、すなわち何が緊急事態なのかについて、一切触れていない。
実は私は未だに、皆さんにこの悩みについて相談すべきかどうか、迷っているのだ。
ここ数日とある一つの問題で悩み通しだった私の様子を見かねてか、皆さんに理由を尋ねられた。その質問にどう答えるべきか、結論を出しかねている。
できることなら自分ひとりで解決したい問題である。人に相談するには少しばかり恥ずかしい問題でもある。
だが、もはや私に残された時間は少ない。ここで手をこまねいた結果――最悪の事態へと繋がる可能性もありうる。
ならばここは、恥も外聞も捨てて相談したほうがいいのだろうか。
でも、やっぱり……。
頭の中が堂々巡りでぐるぐる回る。
そんな私を、不思議そうな顔で眺めつつ、すずさんが言った。
「一体どうしたってのよ、刀子?」
「どうしたと申されましても、それはつまりその……少々言い難いことでして……」
私が押し黙って悩んでしまったところに、刑二郎くんが、
「まぁ、無理にとはいわねえけどよ。そんなに言い辛いことなのか?まさか刀子に限って、学年末考査の出来が悪くて留年しそう、なんてこともねーだろ?」
と、軽口を叩きざま、伊緒さんに
「そりゃそうよ、あんたじゃないんだから」
とたしなめられた。
「おい、伊緒!俺が卒業できそうにねぇって話なら信憑性あるってーのかよ?」
「そりゃそうよ。いかにもありそうじゃない」
真顔で答える伊緒さん。その横でトーニャさんがニヤリと笑い、
「むしろほぼ確定事項といって差し支えないかと」
とちゃちゃを入れる。
「お、おまえらなぁ……」
刑二郎くんがこめかみあたりの血管をひくつかせながら口を開こうとしたその瞬間。
「で――実際のところ、どうなの?本当にできそう?卒業」
それまでの売り言葉に買い言葉から一転した伊緒さんに、本当に心配そうに尋ねられてしまった。
がたん、と。
刑二郎くんは椅子を倒さんばかりに勢いよく立ち上がり、そのまま猛然と口を開き――
「なっ!ななな、なに言いやがる!そりゃ、お前、その、なんだ、おお、俺だって、そ、卒業?でで、できるに決まってんだろうが!大丈夫だ、大丈夫……うん、だいじょうぶ、だ、と、思う、んだが、その、なんだ……」
――盛大に失速した。
「動揺しまくってるじゃない。それについこの間も喚いてたでしょ。学年末考査、全然出来なかったって。あれだけ勉強見てあげたってのに、まったく。結果は少しでも返ってきたの?」
「そ、それは……まだ、だけどよ……」
刑二郎くんは先ほどと打って変わって消沈している。それにしても、仮にも三年生が二年生に勉強を見てもらうというのはいかがなものでしょう。
それまで話を聞いていたさくらちゃんが、
「えっ!?じゃあ上杉先輩、本当に卒業できないかもしれないんですか!?」
と、驚いたように口を覆う。その横で美羽ちゃんは、
「……(グッ)」
と無言でガッツポーズ。
次いで狩人くんがさっと前髪をかきあげ、爽やかに且つ冷静に、恐ろしい未来を告げた。
「もしそうなるとすると、来年度、僕や七海さんたちと先輩は同学年、ということになりますね」
「ば、馬鹿言うな、卒業するに決まってんだろ!ああ、するさ、おう、するとも!……たぶん。きっと。おそらくは。……出来る、出来たら、出来るとき……」
刑二郎くん、再び盛大に失速。つぶやく刑二郎くんの肩に、トーニャさんが手を置き、
「来年度もよろしくお願いしますね、上杉くん」
「不吉なこと言うんじゃねぇ!」
伊緒さんが刑二郎君の様子にため息をつきつつ、話を戻した。
「まあ、この馬鹿の卒業に関してはテストの結果を待つしかないわけですから、今は置いておくとして。刀子先輩の悩みの話でしたよね」
その言葉に頷き、皆さんは私の方を見つめる。
確かに、このまま一人で悩んでいても、問題は解決しそうもないですし……。
私は、底なし沼の泥を掻き分けるように、纏わり付く迷いを振り払いながら、ゆっくりと話を切り出した。
「実は……悩みというのはその……料理についてなのです」
「お料理、ですか?」
首をかしげるさくらちゃんに頷き、答える。
「はい。最近、和食しか作れない自分に限界を感じているといいますか、れ、れぱーとりぃを増やしたいと考えておりまして、洋食などにも挑戦したいかなぁ、などと思っているのですが、如何せんうまくいかなくて……」
刑二郎くんが腕を組んで、少し困ったように言った。
「あー、そりゃあ和食一筋の刀子にゃ、難題だわなぁ」
「うぅ。そうなんです」
しゅんとする私に、
「でも、どうして急に洋食を作りたい、なんて思ったりしたんですか?」
と、伊緒さんが言う。
「そ、それは、その……つ、作ってみたいものがひとつ、ありまして……」
話を聞いていたすずさんが、
「何作りたいのか知らないけど、いっそのこと、それだけ出来合いでも買っちゃえばいいじゃない」
「だ、駄目です!ああいったものは、その、こ、心をこめて手作りすることに意義があると思いますし、そうして想いを込めた方が、きっと相手の方にも喜んでいただけると思いますので……」
笑顔で喜ぶ彼の顔を思い浮かべる。それだけで幸せな気持ちが胸に満ちる。思わず顔に手を当てると、2月の外気で冷えた手が、火照った頬に気持ちいい。
そんな私をなにやら呆れたように眺め、刑二郎くんが言った。
「あー、双七がらみか」
「な、なんでわかるんですか、刑二郎くん!?」
「わからいでか!」
刑二郎くんの言葉に狩人くんもうんうんと頷く。
・・・…うう、内緒にしていたことの半分が、いきなり白日の下に晒されてしまいました。
と、それまで黙っていたトーニャさんが口を開いた。
「でも、如月くんに満足してほしいっていうことなら、別に無理に洋食に手を出さなくてもいいんじゃありませんか?刀子さんの作ってくれるご飯はおいしい、って、日頃からこっちが見ていてむかつくくらいの満面の笑みを浮かべて食べてますし」
すずさんがその言葉に頷いた。
「うんうん。双七くん、この前のお正月にも、刀子の作ってくれたおせちにかなり感動してたもんねぇ。『おせちかぁ……。おせち食べるのなんて、いつ以来だろう。刀子さんとすずと、こたつに入って、こんなに美味いおせちを食べて、俺、もう、それだけで……』なんて泣きながら」
「話を聞くだけで双七くんの感動っぷりが目に浮かぶようだね」
と狩人くん。
皆さんに言われて、正月のことを思い出してみる。
「確かに、それはその、双七さんはいつも大変喜んでくださっていますし、せんだってのお正月のおせちやお雑煮も残さず食べてくださいまして、私といたしましても大変嬉しいといいますか、こ、恋人冥利に尽きるといいますか……。ですが、将来的に毎日お料理することになった時にはですね、やはり、れぱーとりぃが多いほうが妻としては――――つ、妻!?妻だなんていやん、もう、私ったらなんて気が早い――で、でもでも将来的にはやはり、その…………いやんいやん」
「なあ、帰っていいか?」
「右に同じ」
口々に刑二郎くんにトーニャさん。
「お、お待ちになってください!私の悩みはどうなるのですか!?」
鞄を持って今にも立ち上がらんとするトーニャさんの腕をつかむ。
「そんなのわたしは知りませんよ。みの○んたの人生相談にでも電話すればいいじゃないですか。私は帰ります。帰るんです。ええい、帰るったら帰るんですー!私はそんなのろけに付き合ってられるほど暇でも寛容でもないんですー!かーえーるー!」
私達の言い合いに、すずさんが呆れたように口を挟んだ。
「帰る帰るってあんた、そんなにあの兄の下に帰りたいの」
トーニャさんはぴくんと小さく震えたかと思うと、
「さ、刀子先輩、話の続きをお願いします。ええもう、この際、徹底的に相談に乗りますよ。なんなら朝まで生討論と洒落込みましょうか、一乃谷神社に泊り込みで。あ、トーニャんナイス妙案。刀子先輩そうしましょう、ええ是非とも、いえむしろ是が非でも!ではそういうことでいいですね?ファイナルアンサー?ファイナルアンサー!はい、決定!」
そんなトーニャさんに美羽ちゃんが突っ込みを入れる。
「……えと、トーニャ先輩、取りあえず、ナイスと妙案で意味がかぶってるのです」
その横で、
「その他にも突っ込みどころが満載だね」
と狩人くん。
さくらちゃんと伊緒さんは声を抑えて、
「かなりの取り乱しようというか……えっと、な、なんて言ったらいいか……そんなに、その、すごい人なんですか?トーニャ先輩のお兄さんって……」
「それについては、私からはノーコメントということで……」
と言いあっていた。
トーニャさんのお兄さん。私も直接お目にかかったことはまだないのですが、やはり、あの台本から推して知るべし、という方なのでしょうか……。
それにしてもトーニャさんは、このままでは本当に泊まりに来かねない。普段なら歓迎するところですけれど、『あの日』まであと幾日ということを考えると、すでに私に猶予は残されていないわけで。今は少しでも多くの時間を調理に当てなくてはなりません。
私はトーニャさんや皆さんに向けて言った。
「と、泊まっていただくかは別にして、まずは何かしら助言をいただけると嬉しいのですが……」
私の言葉に、刑二郎くんが答える。
「助言っていわれてもなぁ……。刀子だってこれまで洋食に全く挑戦してこなかったわけじゃねーだろ?」
「それはもちろんそうなのですが」
「で、その成果は今のところパンに小太刀でバターとジャムを塗れた、ってことぐらいなわけだ」
「はい、情けないながら、おっしゃるとおりで……って、ちょっとお待ちになってください。どうして刑二郎くんがそのことをご存知なのですか?」
「あ、あー、いや、まあ、それはおいておいてだな。えー。つまり、あれだ、俺たちが今からアドバイスしたところで、洋食を作れるようになるとは思えんぞ、ってことが言いたかったわけだよ、俺は」
「うぅ、なんだかごまかされているような気もしますが、そこは気にしないでおくとして、やはり洋食を作るのは難しいでしょうか……。それでは私はいったいどうしたら……」
しばし沈黙があたりを支配する。その静寂を破るようにさくらちゃんがおずおずと手を上げた。
「ところで、まだ聞いてなかったと思うんですけど、結局のところ、何をお作りになりたいんですか?刀子先輩」
「えっ!?そ、そそそそそ、それはですね、あの、なんといいましょうか、いろいろ洋食を作れるようになりたいとも思うことは思うのですが、目下急務としているのはですね、か、甘味と言いますか……」
「甘味――デザートですか。どんなデザートなんです?」
「そ、それは、こう、和食で例えるなら餡子にあたるような感じといいますか、あの、黒っぽいというかこげ茶色な感じというか……」
私のしどろもどろな答えを聞き、すずさんが唇に手を当てつつ思案顔を浮かべる。
「こげ茶ねぇ……ゴキ○リ?」
『ひゃう!?』
すずさんの口から突然発せられた悪魔の名称に、さくらちゃんと美羽ちゃんがそろって悲鳴を上げる。
私も慌てて、
「ち、違います!!というか、すずさん、それ甘味でない以前に、料理でもないですし、それどころかこの日本においては食材ですらありませんから!食べられませんから!どんといーとですから!」
「わかってるわよ、ちょっと言ってみただけじゃない」
すずさんの言葉に、いつの間にか余裕を取り戻したトーニャさんが、やれやれとため息をつく。
「まったく。これだから人間の食文化というものをも理解できない化け狐は。まあ所詮は野生動物、といったところでしょうか」
「あらぁ、なにかお言いになりました?そこな信楽焼きの化け狸さん?」
「いーえー、別に。日本ではゴ○ブリは食べないなんていうごくごく当然の一般常識を食欲ひとつでかるーく覆すとは、さすがは野狐、ぶっちぎりで見境ないなー、なんてちっとも思ってはいませんよ?」
「あらあら、そうなのー。ちょっとした冗談を冗談と理解するだけの脳の皺すら持ち合わせてないのねー。さすがはトーニャさん。陶磁器だけあって、脳みそまでつるっつるですこと。あー、可哀想」
火花を撒き散らしながらニッコリとにらみ合うお二人。
「あー、ほら、二人ともストップストップ。まだ刀子先輩の話の途中でしょ」
伊緒さんの仲裁に、何とかにらみ合いを止めたものの、お二人は、
「はっ!」
「ふん!」
と互いにそっぽを向いてしまった。
さくらちゃんが
「お二人とも、落ち着いてください」
とトーニャさんとすずさんを宥めつつ、私に再び尋ねた。
「――それで、刀子先輩。話を戻しますけど、何をお作りになりたいんですか?」
さくらちゃんの言葉に、私は今度こそ覚悟を決めて、口を開いた。
「……はい。じ、実はですね……。バ、バババ、バレンタインデーのチョコレート、を作りたいなー、などと、お、思っている、次第、なの、です」